1996年8月5日、「Body & Soul」で鮮烈なデビューを果たしたSPEED。立て続けにミリオンヒットを飛ばし日本中を熱狂させたのも束の間、わずか4年足らずで解散に至ったのは一体なぜだったのか? そしてその後、4人が歩んできた“道”とは。(全2回の後編/はじめから読む)

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4人でとことん話し合い、“解散”という選択に至った

 1999年10月5日、SPEEDの4人がそろって記者会見にのぞみ、翌春の解散を発表した。このとき今井絵理子が、初めて解散の話が出たのは前年(1998年)の8月だったと明かした。

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 彼女たちの所属するライジングプロダクションの平哲夫社長も、この会見直後のインタビューで、時期は若干前後するものの前年の7月に彼女たち一人ひとりに話を聞き、それぞれのやりたいことが見えてきたので、4人のタレントとしての方向性、そして今後の人生を考えると解散という選択が一番いいと思ったと語っている(『週刊女性』1999年10月26日号)。

1999年10月、記者会見で翌年3月31日の解散を発表するSPEED。(左から)上原多香子、島袋寛子、今井絵理子、新垣仁絵 ©時事通信社

 これは後年、上原多香子が、《4人で集まって、私はこういうことがしたいという話をして、で、社長に相談に行ったら、「そうか。だったら、解散したほうがいい」と言われたんですね》と証言しているのとだいたい一致する(『アサヒ芸能』2011年9月1日号)。

 ただ、社長に相談する前に、まず4人で話し合ったということは重要だろう。今井も著書で、《4人でとことん話し合った結果、「解散」しようという答えを出しました。SPEEDはいつも4人の同意の上で物事を決めてきました》と書いている(『動かなきゃ、何も始まらない』光文社、2021年)。

解散を強く主張したのは島袋寛子だった

 後年のメンバーたちの発言によれば、解散を強く主張したのは島袋寛子だったという。彼女は中学2年のとき、SPEEDと並行してソロで活動を始めたぐらいから、このままでいいのかと自分の人生を考えるようになったらしい。考え込むうち、仕事をしている自分が噓をついているような感じがしてきて、自己嫌悪に陥った。ついには《歌うのが大好きだったのに、それもイヤだと思えてきて。声も出なくなってしまって、ちょっと考えたい、立ち止まりたいと》思いいたったのだという(『週刊文春』2009年11月12日号)。

島袋寛子 ©文藝春秋

 島袋と上京以来ずっと仕事も生活もともにしてきた今井は、彼女が「解散したい」と口にするのを聞いて衝撃を受けた。今井の本心では、SPEEDという夢の続きをもっと見たかったし、何よりまだみんなといたいという思いが勝った。そのため島袋から解散したいと言われても反対したが、彼女の意志は変わらなかった。