主演映画『レイブンズ』が公開中の浅野忠信には、俳優人生の中で今も忘れられない失敗があるという。それを乗り越えて確立した演技論とは――。(全3回の3回目/#1、#2を読む)
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日本でも大ヒットした作品のオーディション落選が教訓に
――タイで撮影された『地球で最後のふたり』(2003)など、以前から海外作品には出演していましたが、『マイティ・ソー』(2011)以降はハリウッド作品への出演が続くようになります。このときも変化しようと思ったんですか?
浅野 きっかけはだいぶ前にありましたね。実は『ラスト サムライ』(2003)のときに、オーディションを受けていたんです。ただ、そのときの取り組み方が、自分でも気に入らなくて。落ちたことは別にいいんですけど、台本の一部だけ渡されてもできないみたいな、すごく生意気なことを言って落ちたことが超ダサいなと思ったんです。真剣に取り組んで、役を逃したならともかく。
そうしたらその後、『モンゴル』(2007)の話が来たので、真面目にオーディションに臨んだところ、初めは相手役だったはずなのに主人公役に決まったんです。「主役をやってくれないか」と言われて、モンゴル語なんてしゃべれないけど、「やる」って(笑)。
結果、それがアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされて、全米公開が決まり、アメリカのプロデューサーの目に留まった。それで「アメリカでなにかやりたいなら協力する」と言って、エージェントを紹介してくれたんです。
――そうやって初のハリウッド作品『マイティ・ソー』の出演につながっていったんですね。
浅野 だから変化しようとしたというより、自分のやり方を改めようと思ったところから、自然につながっていったんです。
――海外作品への興味は当初からあったんですか?
浅野 僕らの世代だと、永瀬正敏さんがジム・ジャームッシュ監督の『ミステリー・トレイン』(1989)に出られたりしていたので、そうやって海外作品に出演することが普通なのかと思っていたんです。
僕も『ACRI』(1996)という日本映画で初めて海外撮影をしたり、ウォン・カーウァイ監督の『wkw/tk/1996@7'55"hk.net』(1996)という短編に呼んでもらったりして、海外に出る機会がときどきあった。海外の映画祭にもよく行きましたし、それが普通だと思っていたら、どうやら違うんだなってある時点で気づいたんですね。
後輩から「浅野さんみたいに海外に行きたいけど、機会が全然ないんですよ」って言われて、「あ、ないんだ」って。「うちより大きな事務所なのに、なんでないの?」って(笑)。うちは逆に、小さい事務所だったからしがらみがなにもなかったのかもしれないです。