「小泉家って親子の会話もワンフレーズなんですか?」(福田)。「そりゃね、ワンフレーズじゃ済まないよね」(小泉) 。自民党若手政治家の中でもっとも期待される2人、小泉進次郎氏と福田達夫氏の対談本『小泉進次郎と福田達夫』(田﨑史郎 著)が実現した。総理だった父のこと、世襲政治家の家のこと、そして自分の夢のすべてを、初めて語り合った。真摯かつ率直なやりとりの一部を本書より選り抜いて紹介する。

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『小泉進次郎と福田達夫』(田﨑史郎 著)

親の言うことを聞いて芸能界に入ったのが孝太郎。聞かなかったのが僕


──小泉さんは四代目、福田さんは三代目。国会議員が家業になっていると陰口をきく人もいる。そもそもお二人は政治家を志望されていたのですか。いつごろ政治家になろうという気持ちになられたのか、それぞれにお聞きしたい。

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小泉 僕は大学生のときですね。うちの親父は僕と兄の孝太郎に、「おまえたちは政治のことは考えなくていいからな。好きなことをやれ」って、子どものころは、ずっと言っていました。それに、これはもしかしたら達夫さんもわかる感覚かもしれないけど、政治家の父親を持つと、政治の話をすることがなんかはばかられるような雰囲気ってありませんか。何か自分の意図とは違う取られ方をしたり、勝手に尾ひれが付いたり──ひと言で言えば面倒くさいんですよ。だから自分で抑え込んでいた部分が結果的にはあったんじゃないかなと思いますね。親の言うことを聞いて芸能界に入ったのが孝太郎。聞かなかったのが僕なんです。

 大学のときに親父から「おまえは将来どうしたいんだ」と言われてはじめて、「僕は後を継ぎたい」って言った。そのときの親父は複雑な表情でしたね。あまり僕の目を見ず、目線を少し下に落として「そうか」って。「だったら勉強しなきゃダメだぞ」って、ひと言だけ言った。そのときもワンフレーズだったね(笑)。

──大学何年生のときですか。

政治の世界に入ると決意した時、親父の返答は「ワンフレーズだった」。

小泉 親父が総理になって間もないころですから、二年だと思います。そのときから人生、生活が一変しました。家族だって首相になると思ってなかったんだから。ほんとうにあのとき、家族みんなも三回目の総裁選で負けたら終わりだという雰囲気でした。政治の現実、数の論理で言えば、当時、橋本龍太郎さんが圧倒的だったわけだから、まさかですよ。

──純一郎さんが立候補された時点で、われわれも「橋本元首相、優勢」と報道していた。しかし、選挙戦中盤から都道府県連における党員・党友票の集計が明らかになって、予想が全然違っているというのがわかった。慌てて軌道修正しました。

小泉 あの総裁選、僕も手伝っていたんですけど、横浜駅の西口がとんでもない人出で、ああ、立錐の余地もないというのはこのことを言うんだなと。横浜は遊びに行ったり、買い物に行ったりする場所でしたから、しょっちゅう見ていましたけど、あんな西口の景色を見たことないんですよ。その様子を見て、国民の力というか国民の声が政治を動かすんだな、というのをまざまざと感じました。その体験はやっぱり大きいと思います。

国会見学に行ったら、出迎えてくれたのが親父だった

──それ以前から政治に関心はあったんですか。

小泉 子どものころ、大臣になったりして、だんだん親父がテレビに出る回数が増えてくるんですよ。そうすると最初のころ何やっているかわからないけど、なんか最近、前より見るようになったなというところから自然と関心を持ったりしましたね。だけど、関心持っているっていうこともあまり言ってはいけないんじゃないか、みたいな思いもあった気がします。

 妙に覚えてるのは、人生で初めてのお通夜の光景です。うちで親父のお手伝いをしてくれていたおじいちゃんが亡くなって、お通夜に行ったんですよ。それで親父に手を引かれてお通夜の列に並んでいたときに、後ろのほうに並んでいた地元のおばちゃんたちが「あら、小泉さん」って言って寄ってきて、「それが議員バッジ? ちょっと見せて、見せて」と、親父の周りに集まってきたという景色です。僕が幼稚園か小学校ぐらいだと思うんです。親父が政治家だということを認識した原体験の一つだった。それからやっぱり家にいると、出入りする人が多かった。

 小学校のとき、国会見学に行ったら、出迎えてくれたのが親父だったっていうのもありましたね(笑)。「いや、みんないつも進次郎をありがとうね」とか言って、恥ずかしい思いをした記憶がありますけど、大学生以前はそんなものでした。