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小学校教諭を射殺、警官を短刀で刺し殺し…「凶悪で冷酷なピストル強盗」と犯罪史上に残る“劇場型犯罪”

小学校教諭を射殺、警官を短刀で刺し殺し…「凶悪で冷酷なピストル強盗」と犯罪史上に残る“劇場型犯罪”

「ピス健」事件#1

2022/12/18
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 この事件は、いま起きてもメディアが大騒ぎすることは間違いない。銃器を使った広域犯罪はいまでも多くないが、いまから100年近く前、東京、神奈川、京都、大阪、兵庫を股にかけ、ピストルと短刀を武器に強盗に押し入り、警官を含む3人を殺害。

 さらに警察に“挑戦状”を送り付け、中国大陸に渡って強盗を犯すなど、行動は“神出鬼没”。変装が得意とされ、「全国的な捜査網をくぐり抜け、ときには中国服を着け、ときにはかつらを着けた女装で現れるなど、犯人の行動は大胆不敵の一語に尽きる」(「大阪府警察史第2巻」)といわれた。踏み込んだ警察の決死隊に逮捕された時も女装だった。日本初の劇場型犯罪といえるかもしれない。

 名前も「守神健次」「本田俊一」「大西性次郎」などと変幻自在に使い分け、彼の事件は大阪をはじめ4都府県の警察史に記述がある。変わらないのは「ピストルの健次」を縮めた「ピス健」という呼び名。一世を風靡したといってよく、ここでもそれで通すことにする。

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ピス健が使った変装道具とピストル(國民新聞)

 そのころ、時代は変わりつつあった。江戸から明治の「古きよき情緒」が薄れ、農漁村中心の社会から都市化・大衆化へ。治安維持法が制定され、昭和の国家主義の息吹きが感じられ始めていた。「ピス健」事件は翌年の「鬼熊事件」と並んで、そんな大正の終わりを象徴した犯罪といえる。

 今回も文中、現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。文語体の記事などは、見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。事件の関係者で20歳未満は匿名とする。

「ピストルと日本刀を携えた強盗が忍び入り…」

 事件について書かれたものは多いが、ほとんどが読み物ふうの内容で、誇張や脚色が多く、固有名詞もまちまち。

 基本的なデータは主に、捜査資料を参照したとみられる兵庫県防犯研究会の「捜査と防犯 明治大正昭和・探偵秘話」(1937)所収の予審請求書に従う。それによれば、ピス健の本名は「太田愛次郎」となっている。

「ピス健」としての犯行は、はじめはあまり注目されなかった。「神奈川県警察史上巻」(1970年)によれば、最初は1925(大正14)年10月28日、横浜市の元貸席業の女性宅だったが、それと次の翌29日の神奈川県鶴見町(現横浜市)の饅頭(まんじゅう)店と蓄音機製作所の2件、計3件は、被害の金品が少なかったこともあって新聞報道がされなかったようだ。4件目が11月5日発行6日付國民新聞夕刊に載っているが、6行のべタ記事(1段見出し)だった。

 入新井の別荘へ強盗

 5日午前2時ごろ、(東京)府下入新井不入斗(現東京都大田区)1471の日本橋旅籠町、金物商・川合清次郎の別荘へ、ピストルと日本刀を携えた強盗が忍び入り、別荘番の廣瀬よし(60)を脅迫。現金5円(現在の約8000円)を強奪して逃走した。大森署で厳探(厳重探索)中。

「捜査と防犯」の「予審請求書」では被害者の名前は「石瀬たい」になっている。当時の新聞を見ると、強盗事件がかなり頻繁に起きており、ピストル強盗といっても扱いが小さかったのだろう。

最も早くビス健の犯行を報じたと思われる國民新聞の記事

押し入って住人を射殺。巡査は短刀で刺し殺し…

 人々の耳目を集めるようになるのは4日後の11月9日発行10日付の在京各紙の記事からだ。いずれも社会面トップだが、比較的分かりやすい東京朝日(東朝)を見よう。