「海賊」といえば、いまもアフリカ・ソマリア沖などに時折現れているが、武装した日本人集団が外国まで出かけて外国船を襲撃。物資を奪ったうえ、乗組員を殺害するという前代未聞の出来事がいまからちょうど100年前に起きていたことを知る人は少ないだろう。

 背景にはロシア革命とそれに干渉した日本のシベリア出兵、その中で起こった「尼港(ニコラエフスク)事件」という国際問題があった。

 それにしても気になるのは、主犯の男らが一部で「憂国の志士」として英雄扱いされたこと。それには当時のメディアの報道ぶりが関係している。海賊は論外だが、いま、もし国際紛争が起きたら、メディアはどのように報道し、世論はどうなるだろうか。そう考えると、現在にも通じる問題だといえる。

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 今回も文中、現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。新聞記事などは、見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。

仲間割れして自首しようかと…

 さる9月15日の夕暮れのこと。(東京・)芝浦沖合に、どこからどうして来たのか、一艘の漁船が係留されていた。と、日ごと夕闇に乗じて50~60名の、エタイの知れない怪しげな連中が人目を避けながら、盛んにその船に出入りしていた。が、別段怪しまれもせず、越えて17日の早朝、この船は東京湾の彼方に帆を上げた。その行方はどこだろう? 

 事件を世に知らしめることになった1922(大正11)年12月12日付東京日日(東日=現毎日)社会面トップ記事の書き出しだ。書いた立花義順記者は30年余後の「文藝春秋」1955年10月臨時増刊「三大特ダネ讀本」掲載の「海賊船大輝丸事件」で経緯を書いている。

「海賊事件」で特ダネとなった東京日日の記事

 12月11日(文春の記事には12日とあるが誤り)午前10時ごろ、立花記者は何となく以前から親交のあった弁護士、布施辰治を訪ねてみようと、車を四谷に向けた。とろこが、書生が玄関口に出てきて「きょうはお客さんがあるので、面会はお断りしている」と言う。

 何かあると思って書生を押し切って2階に上がり、ノックして部屋に入ると、「居合わせた赤銅色の男3人がどきっとしたように私を振り返った」。「勘弁してくれ」と言った布施も、「自分も困っている」と答えて3人を紹介した。

「この人たちは江連の部下として芝浦から大輝丸に乗り込み、ロシアの尼港で荒稼ぎをやって帰ってきたんだが、分け前の点で仲間割れし、いっそのこと自首しようかと俺のところへやってきたわけだ」

「露船に乗り込み、船長以下十一人をみな殺し」

 3人は田中三木蔵、菊地種松、矢ケ崎徳寶。「江連」はこの「海賊団」の首領の江連力一郎、「ロシアの尼港」は、ロシア極東のニコラエフスク(現ニコラエフスク・ナ・アムーレ)のことだ。「これはいける」と思った立花は3人から話を聞いたうえ、3人を自分の車に乗せて警視庁に直行して自首させた。

 それが「聖代に恐るべき海賊船 東京を船出して北樺太に惨虐の限り 露船に乗り込み、船長以下十一人をみな殺し」が見出しの特ダネに続く。記事はこうだ。

 それは、いつの間にか、北樺太の一要港アレキサンドロフスクへと航していた。しかも、この航海の目的は、オコック方面へパルチザンが埋めたという砂金を掘り出しに行くというのであった。だが、それは表面だけのこと。実はこの船は世にも恐ろしい海賊船であった。乗り込んだ多くの若い船員たちはそんなこととは知らずにいたのを、途中で船長その他の幹部に脅迫されて余儀なく海賊となったのであった。ア港に着いたのは、なんでもその後1カ月たって10月の半ばすぎで、この船を見て同市の住民たちも一個の漁船というほかには別に怪しいものとも思わずにいたのであった。