まさに海賊そのものの狂気じみた蛮行だが、予審終結決定書は、その後の経緯についても書いている。
宗谷税関の警戒が厳重だったため強奪品を処理できず、「海賊団」は2隊に分かれ、1隊は江連が指揮して稚内に上陸。再渡航の準備として、携帯した武器一切の保管を倉庫会社に委託した。他の1隊は島田が引率して同年11月6日、小樽に上陸。
約7万円(現在の約1億1400万円)相当の略奪品を処分し、大輝丸賃借料を支払った残り約6万余円(同約9800万円余)を分配して解散した。「史談裁判」によれば、一般の乗組員には150円(同約24万円)ずつしか配られなかったという。
江連力一郎という男
こうした「海賊」行為に引っ張って行った江連力一郎とはどんな人物なのか。12月13日付朝刊では、東朝と東日が記者を茨城県に派遣して経歴などを取材した結果を載せている。軍服姿の江連の顔写真を載せた東朝を見よう。
團(団)長江連の素性 明大の卒業生で柔道五段 實(実)父長左衛門の談
海賊船の団長と伝えられる江連力一郎の郷里、茨城県結城郡江川村に実父長左衛門(64)を訪えば、「せがれは子どものときから非常に活発で」と次のように語った。海城中学から明治大に入り、26のときに卒業。すぐ1年志願兵として水戸工兵隊に入営した。除隊後は上京して撃剣や柔道などを練習し、柔道は5段の免許を得ている。それから大正7(1918)年に武者修行と称して支那(中国)へ渡り、香港で挙動不審とされ、領事館に1年ばかり留置され、日本へ押送された。以来、向島に居を構え、セルロイド製造、自動車会社をはじめ、伊豆でホテルなどをもくろんだがうまくいかなかった。今回の渡航では10月7日付で北樺太から、石油、石炭、金鉱などの権利を獲得したから安心してくれという手紙が来た。
「剣士江連力一郎伝」によれば、江連は1887(明治20)年の大みそかの生まれ。実家は江戸時代に水田開発に成功した富農で、茶屋も経営していて裕福だった。海軍軍人を目指したが、家業が入学資格ではねられて断念。明治大に進学した。
ボート部で活躍。長身で武芸全般に秀でていた。1年志願とは自費で入営期間を短縮できる制度で、除隊時は軍曹だったという。
「冒険家」として一部では名前が知られていたようで…
12月14日付國民新聞朝刊には「南洋を股にかけた 向ふ(う)見ずの男 江連の半生は冒険家」という記事が。
東京・牛込の道場で武芸一般の免許皆伝を受け、弟子仲間と「海外の別天地で一攫千金の大事業を」と語り合った。1914年に「南洋」に渡り、スマトラ、マレー半島、ニューギニアなどから中国大陸へ。「種々の冒険を試み、蛮勇を振るって」翌年帰国したという。