武装した日本人集団が外国まで出かけて外国船を襲撃。物資を奪ったうえ、乗組員を殺害するという前代未聞の出来事がいまからちょうど100年前に起きていた。背景にはロシア革命とそれに伴う日本のシベリア出兵、その結果としての尼港(ニコラエフスク)事件という国際問題があった。
船員の告発から明るみに出た事件は、主導した船長・江連力一郎らの逮捕へと繋がっていった。
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「彼らの一匹や二匹は殺したって…」
北海道で逮捕された江連とうめら6人は12月16日夜、札幌発の夜行列車で東京へ護送されたが「江連の出發(発)で札幌驛(駅)は大混雑」(12月18日付東日朝刊見出し)という状態。
12月18日発行19日付國民夕刊は「江連力一郎護送記 大賑かな車中の巨魁」を掲載した。記事によると、札幌駅には「群衆潮のごとく押し寄せ」、三等車に乗った江連は見送った札幌署刑事部長に「おかげさまで、当市民衆諸君の見送りまで受けました」と冗談を言ったという。
当時の札幌―東京間は列車で約1日半かかった。新聞各紙は途中の各駅から記者を乗り込ませて江連やうめから話を聞こうとし、護送の警察官もある程度まではそれを許した。「泰然自若として まだ空呆(とぼ)ける江連」(12月19日付東朝朝刊)、「カラーの汚れを氣(気)にし乍(なが)ら 江連仙臺(台)通過」(同日付読売)……。いまで言う実況中継が紙面に展開された。
同じ12月19日付の東日朝刊は「けさ七時 上野に着く海賊團(団)」の見出しで、やはり車中の言動を記事に。江連は、パルチザンとの関係について「出かけて行ってこっちが弱かったら皆殺しにされてしまう」「われわれの同胞はいずれもこんな悲惨な目に遭わされている。私はこれを思うと、彼らの一匹や二匹は殺したって何でもないと思う」などと熱弁を振るった。
しかし、「私は決して人殺しなどした覚えはない」と容疑を否認した。同じ紙面では、途中の青函連絡船が大しけで揺れ、江連が船酔いして吐いたことを「海賊の船酔ひ」と見出しで茶化した。
12月19日発行20日付東朝夕刊の「群衆に取巻かれ 江連夫妻等警視廰(庁)へ護送」は社会面トップ。車内の江連について「窓際に陣取った江連はサージ(毛織物の一種)の背広に黒の外套をまとい、茶の中折れ帽の下から炯々(けいけい=目を鋭く光らせる)と、一種の威力さえ感じさせるまなこをバッチリとみはって、いささかの疲労も感じないらしく、平然として落ち着いている」と描写した。
記者の質問に「私のとった行為というものが悪であるか善であるかはちょっと判断に苦しみます」と述べ、「大正11年末のいい脚本だと思ってください」と話した。
警視庁の取り調べが始まったが、江連ら中心人物以外の乗組員は次々釈放された。その中にはうめも。12月20日夕、車で警視庁を出たうめを記者らが追跡。「おうめの隠れ家 昨夕放逐されて麹町の知人の許(もと)へ」と12月21日付東朝朝刊。いまのワイドショー並みの過熱報道だ。