文春オンライン

連載大正事件史

「彼らの一匹や二匹は殺したって…」ロシア船襲撃日本人“海賊”…「国士」の虚像を背負った男の末路

「彼らの一匹や二匹は殺したって…」ロシア船襲撃日本人“海賊”…「国士」の虚像を背負った男の末路

海賊事件#2

2022/09/04
note

「死刑が懲役十二年に…… 海賊團長の嬉し涙 けふ(きょう)江連外卅餘(余)名に判決言渡し 三年越しの怪事件大團圓(円)」。27日発行28日付東日夕刊は1面トップでこう見出しを立てた。

「懲役12年」の一審判決に江連は喜んだ(東京日日)

 他の中心人物2人が懲役8年、1人が7年。船長が犯人隠避で罰金となったのを含めて全員有罪だったが、全体として刑は軽く、「判決も被告人らの大和魂を認めたようにみえる」と「史談裁判」は評している。

 新聞各紙に載った法廷写真でも江連には笑顔が見える。被告のうち江連ら22人は控訴したが、同年12月5日の東京控訴院での判決はほぼ一審通り。この前の11月、肺を患っていたうめが死亡。裁判所は江連の10日間の拘留停止を認め、江連は通夜と葬儀に参列した。

ADVERTISEMENT

控訴審判決を伝える東京日日。江連の刑はこれで確定した

 控訴審判決後、10人が上告したが、江連は罪に服した。そして昭和天皇即位に伴う恩赦と模範囚だったことなどから、逮捕から8年足らずで出獄した。その際には「壮士」(若い政治活動家)が集まり「江連の争奪戦」「引張凧(ひっぱりだこ)の江連氏」と新聞に報じられた。

「恩典に浴して」仮出獄した江連(東京日日)
「仮出獄当時の記念写真」。左端が江連(「獄中日記」より)

江連の“その後”

 その後の江連は「満蒙至誠会」のメンバーの肩書で満州(現中国東北部)に渡ったことが資料で分かっている。「剣士江連力一郎伝」によれば、関東軍(満州駐留の日本軍)特務機関の要員だったというが、活動の内容は分からない。

 戦後は、再婚した妻の実家の東京・阿佐ヶ谷で暮らし、いろいろ事業にも手を出して失敗。詐欺事件に絡んで新聞に名前が登場した。最後は1954年11月、ひっそりと亡くなった。満66歳だった。

「海賊と武器と陸軍 奇怪なる三角関係」

 事件を振り返って大きな疑問は軍との関係だろう。発覚直後から新聞にはさまざまに報じられていた。最も早かったのは1922年12月14日付の國民。「海賊と武器と陸軍 奇怪なる三角関係」を見出しに、実業家や国会議員が橋渡しして大輝丸の出航に陸軍幹部が関与していた疑惑を報じた。

軍部の関与をうかがわせる記事も(國民新聞)

 12月15日付の読売と時事新報朝刊は、江連が、日本の人口増殖のためにはシベリアの開放が必要として、陸軍省高級副官・松木大佐の了解を得ていると語っていたと報道。報知も12月20日付朝刊で同趣旨の記事を載せた。

陸軍省高級副官の関与が取り沙汰された(読売)

 松木大佐とは当時、山梨半造・陸相の高級副官だった長州(山口県)出身の松木直亮・陸軍大佐。実は彼は、山梨の前任の田中義一陸相時代、中野正剛・衆院議員が追及したシベリア出兵などに絡む陸軍機密費問題で関与が浮上した人物。

 半藤一利ら「歴代陸軍大将全覧昭和篇 満州事変・支那事変期」(2010年)は、田中陸相と軍務局長と合わせて「長州の三奸」と呼ばれたとしている。最後は大将にまで上り詰めるが、「国民よ満洲に行け」という論文や、国家総動員の解説書を出して国民をあおった。