まず、1922年9月23日の日付で松木大佐の印が押された電報は「予備銃貸與(与)の件」として「露領『オホック』方面へ出張中の江連力一郎より願い出あれば、貴軍保管予備兵器中より三八式歩兵銃百(100)、同弾薬一万(10,000)貸与方取り計らわれたし」としている。これに対し、斉藤・派遣軍参謀長名の電報は「現在、他に貸し出しているので応じられない」と返信。
そこへ日付は不明だが「内田(康哉・外務)大臣」から現地参謀部の通訳官宛てに「同人(江連ら)の行動はこの際、極めて危険と認められる」ので、陸軍と打ち合わせて調べ、場合によっては渡航差し止め措置をとるよう命令。「本人たちは内務省の了解があると言うかもしれないが、内務省は何ら了解を与えたことはないと言っている」とした。
これを受けて陸軍省は「渡航の目的が本人たちの申し出とは違うようだ」として措置を了解。さらに追いかけた10月4日付の電報で「江連一行と陸軍とは何等(なんら)特種の関係なし」と断言した。
「国際的大事件になるかもしれない」
このいきさつを見ると、松木大佐が江連らに武器の貸与を含めた便宜供与を約束したことは間違いない。しかし、その間に悪いうわさが入ってきた。立花義順・元東日記者の「海賊船大輝丸事件」は、3人の乗組員が布施弁護士のところに相談に来ていたとき、「この江連力一郎の海賊船大輝丸事件は、既に少数の人々の間ではあったが大きな関心を呼んでいたもので」と書いている。
それに符合する新聞記事もある。東日が特ダネを打つ約2カ月前、10月7日付の読売朝刊社会面トップ「陸軍と御用商人が絡んで 軍器買込みの怪事 大阪の一商船がサガレンのア港で 某方面に利用して又また國際問題」。
江連の名前は出ていないが、大輝丸が大量の武器と食糧などを積んでアレクサンドロフ港に寄港。さらに北部沿海州方面へ向かったとした。「国際的大事件になるかもしれない」「海賊船と見られても釈明の余地がない」とまで書いている。
その後の情報もあった。警察の正史である「警視庁史 大正編」(1960年)によれば、同年10月、サハリン北部の近海で漂流するロシアの貨物船が発見され、乗組員は1人もおらず、船内が激しく荒らされていた。
続いて同じような船が見つかり、海賊船に襲われて乗組員は全員殺されたということになった。日本とロシアはそれぞれ沿海の警備に当たったが、ある日、ロシアの警備艇が1人の男が漂流しているのを発見。江連らに襲われて1人だけ海中に飛び込んで逃げた乗組員と判明した。日本政府も捜査に当たったが、見つからないまま12月になったのだという。
陸軍省と外務省は江連らの不審な行動をつかんでいた。読売の報道もあった。この時点で対処していれば、あるいは海賊行為は防げたかもしれない。それらの事実が明るみに出ないよう、政府ぐるみで裁判に圧力をかけたことが想像できる。