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 当初の目的がかなわないと分かったとき、素直に帰国する手もあった。江連にそれをさせなかったのは、部下に対する見栄、そして自分に張られた「国士」「豪放」「快男児」といったレッテルを裏切れないというプライドだったのではないか。

児玉誉士夫(前列右)と写る江連(前列左)。江連の後ろがうめ、児玉の後ろは江連の父(「剣士江連力一郎伝」より)

 本当は真面目で繊細で、思ったより小心だったのでは? そのうえで「江連力一郎」を演じていた。切羽詰まって「尼港事件」の現場を見た際の怒りの感情に仮託して「海賊」行為に突っ走った。そんなところが真相だったように思えるのだが……。

「憂国の志士」の“虚像”

 そして、時代が江連の位置付けを変えていく。1930年11月の江連の出獄時のことを「剣士江連力一郎伝」は「『義賊』『国士』の歓迎ぶりで、右翼勢力の噴出を象徴するかに見えたのである」と書いた。

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 昭和恐慌が進み、同じ11月には濱口雄幸首相が狙撃された。「満州事変」は翌年、「五・一五事件」は翌翌年。日本が戦争の時代に深く入って行くのに合わせて、江連は「海賊団の巨魁」「無法のテロリスト」から「憂国の志士」「熱血の快男児」に押し上げられた。

「雪之丞変化」などの大衆作家、三上於菟吉は小説「怪傑江連力一郎」を「中央公論」に載せるほど。だが、それは主にメディアが作り上げた“虚像”だったのではないか。

人気作家も江連を「英雄」として小説にした(「中央公論」より)

 出獄が決まったことを報じた1930年4月17日発行18日付東朝夕刊の記事は江連に「かつて北海に海賊船大輝丸を浮かべて露船を撃滅。尼港の恨みを晴らしたというロマンチックな海洋奇談の主人公」の形容詞を付けた。

 ちょうど1世紀後の現在、例えば万が一、この国の周辺で「日本有事」の出来事が起きたとき、メディアはどれほど冷静でいられるだろうか。国民は熱狂のうずに巻き込まれないだろうか。危うくはないだろうか。

【参考文献】

▽小泉輝三朗「大正犯罪史正談」 大学書房 1955年
▽ 「日本近現代史辞典」 東洋経済新報社 1978年
▽陸軍省・海軍省編「尼港事件ノ顛末」 1920年
▽今井清一編著「日本の百年5 成金天下」 ちくま学芸文庫 2008年
▽安久井竹次郎「剣士江連力一郎伝 北海の倭寇、草莽の首領」 創思社出版 1983年
▽森長英三郎「史談裁判」 日本評論社 1966年
▽半藤一利ら「歴代陸軍大将全覧昭和篇 満州事変・支那事変期」 中公新書ラクレ 2010年
▽「警視庁史 大正編」 1960年
▽江連力一郎「獄中日記」 郁文書院 1932年
▽江連力一郎「ステッキ術」 郁文書院 1932年