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「彼らの一匹や二匹は殺したって…」ロシア船襲撃日本人“海賊”…「国士」の虚像を背負った男の末路

「彼らの一匹や二匹は殺したって…」ロシア船襲撃日本人“海賊”…「国士」の虚像を背負った男の末路

海賊事件#2

2022/09/04
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「誠に正直な善良な、そして、ごく内気な素直な青年だった」

 戦後の1951年7月3日、江連はまだ続いていた他の被告の公判に証人として出廷。「大輝丸は海賊船ではなく、軍部に頼まれてオホーツク方面の白露軍に武器を運ぶ目的だった。しかし、武器が手に入らず、アレクサンドロフ港で調達しようとしているとき、ロシア船と接触したことから乗組員同志が銃で撃ち合いになった。ロシアの2つの船とも戦闘行為だった」と述べた。しかし、これも部下を守るためか、話がうまくできすぎていて全面的には信用できない。

戦後の法廷で江連は「海賊ではなかった」と証言した(朝日)

 江連には獄中で記した「獄中日記」(1932年)がある。記述からは礼節を重んじる古武士のような風貌が浮かぶ。奇妙なのは、その中に海賊事件に触れる記述が全くないことだ。自慢するわけでもなく、反省や弁解の言葉もない。

「獄中日記」の江連の筆跡(「剣士江連力一郎伝」より)

 事件発覚直後の12月15日付東朝朝刊のコラム「鐵箒」には、江連と水戸工兵隊で同期の志願兵という人の「江連の性格」という投書が載っている。「誠に正直な善良な、そして、ごく内気な素直な好個の(ちょうどいい)青年だった」という。

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「内務にも演習にも忠実な勤勉家」。鈍重な方でよく上官からビンタを受けたが、「同輩にはこのうえない親切な友だった」。南洋から帰った後に会い、武勇伝を聞いたが「自分から武勇講談の主人公を以って任ずるドン・キホーテ」のようだった。「彼は単なる浮浪漢、殺人鬼ではない」と断言している。

フォーマルな洋服を着た江連(「ステッキ術」より)

「剣士江連力一郎伝」は「大輝丸事件は尼港の復讐だったという巷説は、反ソの気運が生んだ作りごとに違いない、と思う」と力説。「江連力一郎の品性に、『国士』という国事に生涯を懸ける人物の風格がのぞけるだろうか。剣客ではあったが、粗野な気取り屋の田舎者の一人にすぎなかったのではなかったか」と言う。

「彼の目的は、砂金の採取(略奪)だった。その目的が挫折し、乗組員を帰国させるための、苦し紛れの通り魔に変貌した犯罪なのである」。私も似た感想を抱く。ただ、砂金採取で軍が武器を渡してくれるとは思えない。公判でも部分的に陳述しているように、砂金で稼いだ資金を使ってオホーツク方面にいる日本人を船で連れ帰るなどを名目にしたのではないだろうか。

 実際に事件発覚直後のころにもオホーツクで飢餓に陥った邦人保護のために救援船が派遣されていた。これに対して、このころ、日本政府がシベリア撤兵を進めようとしていることに陸軍参謀本部や現地軍が反対していた。軍部の一部には江連らにわずかでも局面を有利にするための工作を期待する空気があったのではないか。

「殺るほかないと決めちまった」

 同書には1937年に弟子が江連に質問した内容が載っている。

「大輝丸で出かけたのは、砂金を狙ったようですが、それはほんと?」

「ほんとだ。失敗したがネ」

「船上で殺(や)ったとき、尼港の報復だとか、水戸連隊の復讐だとか伝えられたんだけど、本心はどうだったんです?」

「本心か、ウン」

「いくらせっぱつまっての処置だったとしても、命乞いする民間人を殺るなんてひどい」

「そうだったナ」

「そんなことをするのが、尼港や水戸の報復になると思ったんですか?」

「思わんナ」

「じゃ、どうして?」

「いまにして思えば、ほかに打つ手があった。あんときは殺るほかないと決めちまった。殺る段になって、俺は怒鳴っちまった。大正9年5月24日(虐殺の日)を忘れるなッて。で、合図のピストルをぶっぱなしたんだ。それを、部下の連中が後になってしゃべったからナ」