ロシア革命の混乱があったとはいえ、事件が国際問題にならなかったわけではない。日本政府が苦境に陥ったことは間違いなかった。
「江連力一郎は写真班の猛烈なフラッシュを浴びながら悠々と法廷入りした」
1924年4月2日、予審が終結し公判に付されることになった。ここまで時間がかかったのは、前年の9月1日に起こった関東大震災の混乱のためだろう。
1924年10月6日、初公判。同日発行7日付東朝夕刊は「法廷に並んだ卅(三十)三の深編笠 海賊江連等の公判 三年振りに開かる」の見出しで社会面トップで報じた(当時、刑事裁判などの被告は深編笠を被って入退廷した)。
海賊船大輝丸事件の江連力一郎ほか34名(二宮、梅原逃走中)にかかる第1回公判は6日午前10時20分から、東京控訴院の大法廷を借用して、久保判事が裁判長となり、安部検事が立ち合い、事件発生以来3年目に開かれた。
大輝丸事件の公判というので、まだ薄暗い午前6時には、気の早い傍聴人がものすごい吹き降りの中をぬれねずみのようになって押しかけ、第1番目の傍聴券を手に入れて小躍りしながら法廷の入り口に頑張っている。
かくて午前9時には伽藍堂(がらんどう)のような大法廷の傍聴席も埋まり、午前10時、50余名の弁護士がおのおの一抱えある記録をかついで弁護席に3列横隊をつくった。
やがて午前11時5分前になると、お仕着せの久留米絣の羽織に銘仙の袴をはき、公判準備の日とは打って変わって堂々たる風采に返った主魁・江連力一郎は、あたかも事件当時をしのばせるよう、33名の深編笠の長い行列の陣頭に立って、写真班の猛烈なフラッシュを浴びながら悠々と法廷入りした。
「昔の辻斬りですな」「江連さんの言った事は嘘です」
初公判では、検事が事件の動機を「尼港事件」への憤激からロシアの物資を略奪して同胞の恨みを晴らそうとした、と陳述。裁判長の尋問に対して、江連は犯行までの経過と武器弾薬の入手先について述べたほか、ランチは邦人避難に使う目的で分捕ったとして略奪の意図を否定した。
ロシア人殺害は認めたが、同胞の恨みを晴らすためで「昔の辻斬りですな」と答えた。しかし、陸軍との関係については「頭に残っていません」と答えただけだった。
その後の公判では江連ら中心人物がロシア船襲撃は「公憤」だと主張。大筋で海賊行為や虐殺を否定したが、あいまいな陳述も多かった。
これに対し、乗組員らは幹部の命令による虐殺を次々証言。「江連さんの言った事は嘘です」(同年10月10日付東朝朝刊見出し)、「江連さんが掛聲(声)で露人を斬殺した」(11月21日発行22日付読売夕刊見出し)などと述べた。
そして一審判決は…
翌1925年1月27日の論告求刑では、検察側が「被告全員が共同正犯」として、江連に死刑、部下の2人に無期懲役などと求刑した。そして同年2月27日の一審判決は――。