報知は12月16日発行17日付夕刊で「海賊船と騒がれた江連は 軍閥陰謀の悲惨な犠牲」の見出しで、外務、内務両次官や内務省警保局長、参謀本部の将軍らの関与した疑いを伝えた。
さらに12月19日付朝刊では、江連が乗組員を集めているのを不審に思った水上署が出航をストップさせたが、江連が警視庁に出頭して外事課と協議した結果、いつの間にか出航していたとし、当局と何らかの妥協があったことをにおわせた。
その後も「武器の出所は矢張(やはり)陸軍側」と報道。警視庁側の態度についても「薮蛇を恐れ 申譯(訳)に調べて」などと指摘した。
「陸軍当局は今日までの経緯を十分明らかにする責任があると言われている」
この間、事件に関する評論的な記事は極端に少なかった。動機は国を憂える「国士」的な考えだと認めても、海賊行為だけでなく船員を虐殺した行為を認めるわけにはいかない、という戸惑いがメディアにも国民にもあったのだろう。
その中で12月19日付東朝朝刊の「鐵(鉄)箒」に「嗚呼(ああ)君子國」という寄稿記事が載った。筆者は、日露戦争の日本海海戦を描いた「此一戦」の著者で平和主義者として知られた元海軍大佐・水野廣徳。
「北海海賊の凶暴はその性質において、尼港におけるパルチザンと何の選ぶところがない」と断言。「国際信義を重んずる対外政の見地より言えば、日本が尼港事件の補償として樺太を占領したることが正理であるならば、北海海賊事件の補償として露国が千島、対馬を占領することあるも、これまた正理と言わねばならぬ」と述べ、事件の裏には軍閥の陰謀があるといわれていることに触れ、そうした見方を否定する国民は「君子」だと皮肉った。
読売も12月26日付朝刊で「江連事件と陸軍當(当)局の責任」という無署名の社説ふうの記事を掲載した。江連と児玉代議士が大輝丸出航直前の9月中旬に松木大佐と数回会見したのは事実と記述。オホーツク方面への航海の斡旋、つまり現地軍への紹介を依頼した可能性を指摘し「陸軍当局は今日までの経緯を十分明らかにする責任があると言われている」と述べた。
一方、当初は軍の関与をにおわせた時事新報は翌日12月16日付朝刊になると、「事件の背景に大きな人物が潜んでいるとのうわさは絶対に事実がないことが判明した」と態度を一変。12月21日付朝刊でも、警視庁刑事部長の「陸軍省で了解があるとかなんとかいううわさは絶対に事実がないと自分は確信する」という発言を伝えた。
翌1923年1月9日、東京地裁の予審判事は、人事異動で昇進して台湾第一守備隊司令官となった松木少将を召喚。尋問したが、内容は不明。結局、予審終結決定書や一・二審判決でも軍の関与は全く触れられなかった。
公文書に残された言葉
しかし、動かせない事実がある。国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブには、江連らの動きについて陸軍省、外務省とアレクサンドロフスクの派遣軍参謀部が交わした公文書が公開されている。