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「虐殺 帰った乗組員が告発」

 しかし、12月22日発行23日付夕刊で東京朝日(東朝)と國民新聞(徳富蘇峰が創刊した新聞)が実名を入れて報じた。コンパクトな東朝を見よう。

 亜港海賊船の虐殺 歸つ(帰っ)た乗組員が告發(発) 警視廰(庁)大活動を開始す

 12日朝、布施弁護士は警視庁に出頭。正力官房主事と打ち合わせし、さらに東京地方裁判所で小原検事正と会見。何事か陳情した。これにやや遅れて千葉市の大工・田中三木蔵、菊地種松ほか1名は警視庁に出頭し、木下刑事部長、小泉捜査課長、中村強力犯係長の列席を求めて刑事部長室で数時間にわたり陳述した。その結果、刑事部は大活動に移ろうとして準備中。

 事件の真相を聞くと、問題は軍隊的組織の海賊団の露国人17名虐殺で、事件はいよいよ重大問題を引き起こそうとしている。この団長は茨城県結城町に剣道の道場を有する本所向島小梅1ノ4、江連力一郎(35)という者で、同人はオホーツク近海で、先に中村萬之助氏が取り残した砂金8000貫(30トン)を採掘するという口実のもとに深川の人夫・宮田重次、千葉県人・田中三木蔵らの手で乗組員60名を募集した。9月中旬、芝浦港から大輝丸で出帆。亜港に向かい、5~6日前、東京に帰航した。

海賊船として使われた大輝丸(國民新聞)

 亜港はアレクサンドロフスク港のこと。ここには著名な人物が多数登場する。「布施弁護士」は元乗組員が泣きついた布施辰治弁護士。「正力官房主事」とは、のちに讀賣新聞を買収して「メディア王」となる正力松太郎。そして「小原検事正」は後年法相などを務める小原直だ。

 記事は以下、海賊行為の模様を書いているが、特ダネの東日記事同様、誤りが多い。1924(大正13)年4月2日に出た江連以下37人の被告に対する予審終結決定書(4000枚)のうち、事件の大筋に関わる部分を3日付東朝朝刊の記事から見よう。

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オホーツク地方に巨額の砂金があり、これを採集すれば巨万の富を得ると聞かされ…

 江連は1921年8月中、中村萬之助とともに金萬汽船を組織して取締役となり、北海の漁業に従事していたが、たまたま中村からオホーツク地方に巨額の砂金があり、これを採集すれば巨万の富を得ると聞かされた。

 直ちに砂金採集を企画。1922年6月中旬以来、副団長・島田徳三、指揮者・北谷戸元二らとたびたび会合し、元東朝記者の衆院議員・児玉右二を説得して2万円(現在の約3300万円)を出させた。さらに児玉を介して友人の会社社長から3万円(同約4900万円)を資金提供させた。

 江連、島田、北谷戸の3人は、調達した金を持って大阪に行き、相澤汽船所有の大輝丸(2000トン)の賃貸契約を結んで東京・芝浦に回航させた。

 元検事が書いた小泉輝三朗「大正犯罪史正談」によれば、大輝丸は全長181フィート(約55メートル)。2本マストの鉄船で、船足は遅いが堅牢なのが特徴だったという。

 島田と北谷戸は全国の在郷軍人(予備役などの民間にある軍人)から乗組員を募集。江連は中村の助言を受けて同志と図り、秘密に払い下げを受けた陸軍騎兵銃32丁、日本刀67振り、槍18本、弾丸2000箱、陸軍軍服128着、その他、航海に要する糧食(白米250俵、メリケン粉=小麦粉370袋、缶詰)、石炭、飲用水を大輝丸に積んだ。乗組員は軍隊式に教練し、砂金採集が目的と告げ、目的達成の際は多額の分配をすることを約束した。