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 風呂で一緒になった女性の話として、腕に「八洲命」という入れ墨があるとも書いている。その後、12月12日付報知朝刊は、千葉県に住むうめの祖母に話を聞いて経歴をまとめている。

「生首おうめ」(読売)

 それによれば、一家は元々千葉県山武郡大総村(現横芝光町)の出身で、1890年、祖父母が開拓に北海道・北見へ。そこで祖父母の息子夫婦の長女として生まれたのがうめだった。父親が大酒飲みで一家はちりぢりに。うめは上京して渋谷の小学校を卒業し、浅草の歯科医師の家を振り出しに、いろいろな所へ奉公した。

 16歳で井上(良馨・海軍)元帥家の小間使いをしていた時に何者かに連れ出され、茨城県結城町のお茶屋へ酌婦に売られた。そこの主人に同情され、女学校に通わせてもらっているうちに江連との仲ができたという。

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 そして、江連の心遣いで踊りや柔道を習い、民間飛行家になりたいと言っていた。まさに「江連の妻お梅は 不思議な運命の女」(見出し)で波乱万丈の半生だが、祖母は「一口で言えば勝気なやつと申すのでしょう」と話している。

「国策に殉じた」の背景

 12月15日、東日朝刊は社会面トップで「江連團長遂に自白」と報じた。「虐殺は公憤から 尼港事件の仇討 白軍援助が俺の目的だ」の見出しで主要部分は次のようだった。

 江連は取り調べに対し、自分の履歴その他を詳細に述べ、大正3(1914)年6月、支那、南洋方面へ旅行。大正6(1917)年、代議士候補を宣した(立候補表明?)ことを述べた。その後、ニ(尼)港虐殺の報伝わり、水戸連隊絶滅に憤慨してニ港を視察。その結果、沿海州、サガレン(サハリン)は当然日本の勢力範囲だと信じていた矢先、シベリア撤兵のことを聞き、国策上よりその不利を考え、この際白衛軍を援助し、全滅軍隊の弔い合戦をなす必要ありとして本年5月、サガレン視察を計画し……

 北樺太における虐殺の顛末については、陰鬱な表情をしつつ「大体新聞記事の通りだ」と、惨虐だった過去の幻に襲われたようだった。

江連は「尼港事件の仇討」を主張し始めた(東京日日)

 白衛軍とは「白軍」ともいい、1917年のロシア革命時の反革命軍のこと。翌年、アメリカが革命に干渉するため、チェコスロバキア捕虜救援を名目に各国に出兵を要請。日本政府はロシア革命圧殺やシベリアの利権獲得などを狙って要請をはるかに上回る7万2000人の兵を送った。

 干渉が失敗し、各国が次々撤退する中、日本はさまざまな理由をつけて兵力を残存させ、その中で「尼港事件」が起きる。結局、日本軍の撤兵は1925年5月までかかった。

「尼港事件」をセンセーショナルに報じる東京朝日

 江連はここで初めて、「海賊事件」を起こした動機が、「尼港事件」の復讐だったことを認めたことになる。逮捕時に言った「国策に殉じた」もそうした意味だったのだろう。事件に対する反省は全く見せていない。江連はこの後、裁判でも虐殺を否認するなど、供述を微妙に変えたが、動機については終始同様の主張を続ける。