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「少年倶楽部」1918年1月号には「世界武者修行者 江連力一郎」という肩書で「日本刀一本で南洋蠻(蛮)地武者修行」という文章を書いている。そこでは毒蛇を退治したり、「食人種」の村に泊まったりした武勇伝を披露している。

最もよく知られた江連の写真(「歴史と旅」より)

「冒険家」として一部では名前が知られていたようで、「やまと新聞」は事件発覚直後の12月14日発行15日付夕刊から4回続きで「海賊團長江連の南洋踏破手記」を載せた。江連が「市内某所に送った偽らぬ手記の一端で、江連の性情まさに彷彿(ほうふつ)たるものがある」としているが、「強盗殺人犯」の武勇伝を連載するというのは相当なものだ。

「武者修行」から帰国後の江連は、江川村の自宅敷地内に自分の雅号から名づけた「八洲社道場」を開き、柔術と整復術を教えていたが、しばらくして上京したという。

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高野佐三郎道場の寒稽古の記念写真。前から3列目、右から3人目が江連(「剣士江連力一郎」より)

「海賊船の乗組員 涙で惨虐を告白」

 12月13日付東日朝刊は特ダネの続報らしく、自首した乗組員の証言を「海賊船の乗組員 涙で惨虐を告白」の見出しで、3人のうちの2人の写真付きで報じた。ほかにも「何をするのか分からないまま船に乗せられた」などの乗組員の証言が各紙に載った。

 その間、警視庁による事件の容疑者の所在確認と引致が始まっていた。12月13日発行14日付東朝夕刊は、北谷戸らが警視庁に引致されて取り調べを受けていると報じた。そして12月14日付朝刊各紙には次のようなニュースが載った。東朝を見てみる。

 團長江連遂に逮捕 妻と潜伏中札幌で 「國(国)策に殉じた」と豪語す

 虐殺事件の団長・江連力一郎(35)、妻うめ(25)、同行の東京市本所区押上町49,石川房吉(48)の3名は札幌郡下手稲村、唐田温泉・光風館に潜伏中を、警視庁の依頼により極力行方捜索中の札幌署が探知し、刑事数十名を現場に出張させ、逮捕のうえ、13日午後午後7時57分、札幌到着列車で護送してきた。

 江連は日本の国策に殉じたものであると豪語している。妻うめはすこぶるハイカラの美人である(札幌特電)。

「生首のおうめ」という女

 この後も「昨夜は二十名を引致」「乗組名簿で片端から引致」などと捜査の進展が報じられる中で、うめの話題が各紙の紙面をにぎわす。最も早かったのは12月17日付東朝朝刊で、「海賊に伴(つ)れ添ふ(う)黥(いれずみ)のおうめ」という話題ものの記事。

「黥の奥さん」「生首のおうめさん」というのは江連力一郎の女房うめのことだ。江連が向島小梅町4の現在の自宅に移る前は、少し隔たった新小梅町2ノ9、伊藤方の2階を借りていた。その時分はよく小梅町の湯屋「鶴の湯」へ入浴に来た。彼女の背には結い綿(日本髪の島田まげの一種)に赤い鹿の子(絞りの縮緬=ちりめん)をかけた女が、目をつぶって口に匕首(あいくち)をくわえた、ものすごい文身(いれずみ)がある。気の弱い女たちは気味悪がってそばに寄りつかない。