アレキサンドロフスクは現在のアレクサンドロフスク・サハリンスキーでサハリン西海岸の港町。オコックはオホーツクのことで、オホーツク海に面したロシア・シベリアの極東海岸地域。パルチザンとは、ロシア革命での共産主義の指導に基づく武装集団。
ここまでがリードだが、まだ犯行の全貌ははっきりしない。「白刃の下に 愛妻を慕ふ(う) 露国船長の哀願も空しく」の中見出しを挟んで核心に入っていく。
「大正の聖代にこうした大惨虐…」
ア港停泊幾日かの後、この怪しい船は帰港の途に就いた。恐るべき事件は、船がア港をさる十数カイリの沖合にさしかかったときに起こった。そこには、1隻の小汽船でア港に向け航行しているのがあった。その汽船は明らかにロシアの船で、船長や11名の乗組員もロシア人であり、ほかに1名の朝鮮人が乗り込んでいた。これを発見した怪しの海賊船は「いい獲物だ」とばかり、同船に近寄って乗り移るやいなや、船長以下13名の船員を脅迫し、船貨や船体まで占領してしまった。が、自分たちの船が海賊船であることが先方に分かるに及んで、海賊船の船長たちは残忍にも、露船の船長以下、朝鮮人までとうとう11人を皆殺しにした。船長はまさに殺されようとする間際に「自分にはただ1人の妻がある。それはいま函館にいる。自分が殺されたら、後のことはよろしく頼む」とくれぐれも頼んで、白刃のもとに露と消え失せた。13人のうちの1人はこの光景を見て自刃し、もう1人は海中に身を投じて行方をくらました。これはほんの1例であるが、他に数隻の汽船が同じ運命の下に痛ましい最期を遂げている。この恐るべきことが実際に行われたであろうかと、人を疑わしめるほどの大惨虐があえてせられたのである。
3人の証言を基にしただけなので、あやふやなところがあるのは仕方がない。記事は次に主犯格の人物について触れる。
分捕り品の 分け前を 貰は(わ)ぬ船員たちの 口から―発覚
この海賊船は分捕った船を途中で沈めて、何食わぬ顔で再び芝浦の埠頭に姿を現したのはつい1週間にもならぬ、ほやほやのこと。その海賊船であった船は兵庫県西宮の某汽船会社の〇〇丸(500トン)で、いまは持ち主の手に返っている。海賊の団長というのは茨城県結城郡結城町=江川村(現結城市)の誤り=で撃剣道場を開いている剣道5段の某(35)=しばらく名を秘す=という、身長5尺8寸(約176センチ)の大男で、これを助けたのは日本橋通り2丁目の某ビルディング内の某株式会社員・某(38)、芝区琴平町、某ホテル株式会社員・某(34)。事件発覚の端緒というのは、頭株の連中が芝浦帰航と同時に別に分け前も出さずに一同を解散したのがもと。つっぱねられた連中は四谷区の某弁護士のもとに、自分たちがいままでやってきたことを告白するのと同時に、団長らの無情を告げた。この訴えた連中は、恐ろしい海賊を自分からしたのではなく、全く団長らの強要に基づくものであると泣いて付け加えている。大正の聖代にこうした大惨虐を行うことさえ驚くべきだが、ことは国際関係にも及び、今後問題は大きくなるだろう。わが社は近く本件の真相を詳細読者に報道するだろうことを付け加えておく。
いかにも特ダネを意識した記事で、船名や江連の実名を出していないのも、続報に期待させるのと同時に、他社の後追いを意識したためだろう。