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 詩を載せた記事は「一句一章何という悲壮であろう。言々句々悉く涙ならぬはない。読む者、誰か泣かずにいられようぞ」と締めくくっている。この詩は、当時人気の演歌師の添田唖蝉坊が七五調にしてうたった。「尼港事件」は映画や舞台、からくり芝居にもなって国民の感情を揺さぶった。

「敵を討って下さい」と訴えた副領事の娘の詩(「主婦之友」より)

「邦人残虐の跡を歴訪したるに、虐殺当時の惨澹たる光景を連想し…」

 虐殺に遭った石川正雅少佐の大隊は水戸の陸軍歩兵第2連隊の所属だった。

 江連の弟子の証言などをまとめた安久井竹次郎「剣士江連力一郎伝 北海の倭寇、草莽の首領」(1983年)によれば、茨城県では、現地の取材から帰国した新聞記者の報告会が旧制水戸中学(現水戸一高)をはじめ、県内各地で開かれ、血の気の多い「水戸っぽ」を地団太踏んで悔しがらせた。

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 水戸で犠牲者を追悼する臨時招魂祭が行われ、田中義一陸軍大臣(のち首相)が声涙ともに下る弔辞を読み上げた。

「邦人残虐の跡を歴訪したるに、虐殺当時の惨澹たる光景を連想し、被告らは憤慨のあまり残虐無道の露人に対する復讐の念勃発し……」(原文のまま)と東朝による予審終結決定書は書いている。

 江連らは「尼港事件」の現場を見て報復を決意したことになる。そして、結氷時期に当たったためオホーツク行きを断念、ニコラエフスクを出航。一団は南に向かうことを議決し、10月19日、黒竜江沖合にイカリを下ろした。

乗り組みのロシア人3人を日本刀で…

 予審終結決定書はこう書いているが、「大正犯罪史正談」と弁護士による森長英三郎「史談裁判」によれば、江連は既にアレクサンドロフスクで、オホーツク海が結氷してオホーツク方面には航海できないことを知っていたという。

「史談裁判」は「こんなことは別に大輝丸を借り入れるときから分かっているはずで、シベリアで真に砂金を採取する目的ならば、夏期を目標に春に出航すべきであるのに、秋深くなって出航するのは、はじめから海賊が目的ではなかったのかといわれそうである」と指摘している。

 真の目的が何であったか、後で大きな問題になる。予審終結決定書に戻ろう。いよいよ海賊行為の場面になる。

 漁業に従事してウラジオストクに帰航しようとしているロシアの帆船(ランチ)を発見。江連らは初めてロシア人に対する復讐を意味する「強奪心」を併発した。その「アンナ号」に4人の乗組員があるのを確認。騎兵銃を突きつけて船を略奪し、4人を大輝丸に抑留した。

 その後、ロシア船が来るのを待ち、10月21日の明け方になってロシア人と中国人20余人が乗り込んだ帆船「ヴェカー号」(約100トン)が塩ザケその他の魚類、魚油(価格7万余円=同1億1400万円余)を満載して南へ急いでいるのを発見した。江連らは邦人虐殺の恨みを晴らし、復讐を遂げる時が来たとして雀躍。

 北谷戸の指揮の下に騎兵銃、短銃を乱射して船に突入し、乗り組みのロシア人3人を日本刀で斬殺したうえ、遺体を海中に遺棄した。ロシア人、中国人計16人を捕虜として抑留。積んでいた貨物と魚類を強奪し、ヴェカー号を海中に沈没させた。

 さらに、ロシア人と中国人を生かしておけば、やがて国際問題を引き起こす恐れがあり、むしろこれを皆殺しにして後難を避けた方がいいと決意。10月23日、抑留したロシア人、中国人7人と〇〇国人10人を一斉に射殺した。そのうえ、アンナ号のロシア人4人も斬殺。強奪品を処理するため宗谷に直行した。