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「残忍暴虐の敵はこれらの死体をアムール河の水上に投棄したるが…」

 9月17日、芝浦を出帆し、ロシア領オホーツクに向けて航海。北サハリン・アレクサンドロフスクに至って、当地駐在の守備隊参謀・斉藤陸軍歩兵大佐を訪問し、物品の援助を懇請したが、「許可できない。早く帰航せよ」と拒絶された。

 江連らは帰航を承諾しておいて対岸のニコラエフスク港に向かって航海。10月13日、ロシア領の黒竜江河口沖合にイカリを下ろし、江連ら幹部が同港に上陸した。

 ニコラエフスクは日本では尼港と呼ばれ、極東ロシアの主要な港湾都市だが、2年前にロシア革命とそれに伴う日本のシベリア出兵に絡んで日本の軍民に対する虐殺事件が起きていた。

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 1920(大正9)年2月5日、ソビエト・パルチザンは日本軍によって不当に占領されていたニコラエフスク(尼港)の日本シベリア出兵軍・石川大隊を包囲し、28日、これを降伏させた。3月11日、降伏協定を破って蜂起した日本軍は敗れ、122名の将兵と居留民は捕虜となった。その後、日本の援軍の来襲を知ったパルチザンは5月25日、市中を焼き払い、日本人捕虜とロシア人反革命派を殺して撤退した。事件の責任者は革命政府により死刑に処せられたが、日本政府は国民の反ソ感情をあおり、賠償を要求。保障としてサハリン北部を占領したが、結局賠償要求を取り下げた。(「日本近現代史辞典『尼港事件』」)

「尼港事件」の発生を伝える東京朝日
「焼け野原と化したニコラエフスク」(「画報近代百年史」より)

 事件に至る過程についてソ連側の説明はかなり違っているが、日本軍は「無残にもわが生存者をことごとく惨殺し、また強制的に人民を尼港以外に撤退せしめたるのち、全市に放火してこれを灰燼に帰せしめ遁走せり」=陸軍省・海軍省編「尼港事件ノ顛末」(1920年)=などと非難。新聞も次のように伝えた。

「惨殺されたる者、露人及び居留の日本人、(朝)鮮人を合してその数実に5000名に達せり。残忍暴虐の敵はこれらの死体をアムール河の水上に投棄したるが、哀れ、解氷とともにこれらの死体は空しく水底の鬼と化し、渺々(果てしなく広い)たる河上、呼べど声なく、悵然(悲しみ嘆く)としてわが同胞の幽魂を弔うのみ」(1920年6月23日付東朝朝刊)

「敵を討って下さい、敵を討って下さい」

「ひたすら報道されたのはボルシェビキ(共産パルチザン)たちの残虐非道な行動だけである。多くの国民は、この報道に涙を流して憤激した」(今井清一編著「日本の百年5 成金天下」)。特に、妻子を射殺したうえ、自分も海軍将校と刺し違えて自決した石田虎松・副領事の悲劇が話題を呼び、日本にいて一人難を逃れた12歳の芳子がつづった詩が雑誌「主婦之友」1920年8月号に掲載され、読者の涙と悲憤慷慨を誘った。

「敵を討って下さい 寒い寒いシベリヤの、ニコライエフスク 三年前の今頃はあたしもそこに居りました お父様とお母様と、妹の綾ちゃんと」

「三月の末でした お家の新聞に ニコライエフスクの日本人が、一人残らず パルチザンに殺されたと書いてあったので あたしビックリして泣きだしました」

「お父様もお母様も、綾ちゃんも赤ちゃんも みんな殺されてしまひ(い)ました 仲のよかったお友達も 近所に住んでたおばさんも、小父さん達も 誰も彼もみんな殺されてしまひました 槍でつかれたり、鉄砲でうたれたり サーベルで目の玉をえぐられたり 八つ裂きにされたりして殺されたのです まあ何とむごいことをするのでせう(しょう) にくらしいにくらしい 狼の様なパルチザン」

「敵を討って下さい敵を討って下さい そしてうらみを晴らしてやってください」(原文要旨)