明治時代から戦後間もなくまで、日本には華族制度があった。江戸時代までの公家と旧大名に加えて、明治維新やその後の日清・日露戦争などで勲功があった政治家、軍人らが「公侯伯子男」の爵位を獲得。「皇室の藩屏(垣根)」とされる一方、特権的な貴族階級として華やかな栄誉に包まれ、敬意と羨望と怨嗟を受けながら日本社会の中で存在した。

 今回取り上げるのは、伯爵家の娘として生まれ、家を継ぐために同じ華族の家から婿を迎えて1児をもうけながら、お抱え運転手と鉄道自殺を図って自分だけ生き延びた女性の物語。「姦婦!」「わがまま」「出て行け」などとメディアや周囲から大バッシングを受け、女性をめぐる価値観が揺れ動く中、有識者の間でさまざまな論議を呼んだ。

 その後、離婚。また別のお抱え運転手と駆け落ちして伯爵家から追い出され、病気で寂しく死んだ。彼女の人生の軌跡は一体、その時代のどんな側面を浮き彫りにしたのだろうか――。新聞記事を適宜現代文に直し、文章を整理。今回も差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。

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「芳川伯家の若夫人 お抱え運転手と情死す」

 現在のJR千葉駅付近は高架になって、線路の下はショッピング街。しかし、いまから約1世紀前、駅はもっと東方の場所にあり、線路を挟んで空き地が広がるさびれた場所だった。

 事件が起きたのは1917年3月7日の夕方。報道で一歩先んじたのは東京朝日(東朝)で、3月8日付社会面トップで次のように報じた(データベースでは3月9日付が初報。第一報は縮刷版に従う)。

「千葉心中」の第一報となった東京朝日の記事

 芳川伯家の若夫人 抱(かかえ)運轉(転)手と情死す―千葉驛(駅)附近にて― 

 男は咽喉を突いて即死し 夫人は列車に觸(触)れて重傷

 7日午後6時55分、千葉発本千葉駅行き単行機関車に機関手・中村辰次郎、火夫(蒸気機関車などで火をたき機関の手入れなどをする人)・庄司彦太夫が乗り組み、県立女子師範学校側を進行中、年若い女が飛び込み、跳ね飛ばされて重傷を負った。機関手は直ちに機関車を止めたが、飛び込み遅れた同行の青年は、事態を見るとすぐに同校の土堤に寄りかかると、短刀でのどを突いて打ち倒れた。

 届け出により、千葉警察署から猪股警部補、刑事、医師が出張して検視したところ、女は左頭部に深さが骨膜に達する重傷を負って苦悶しており、男は咽喉部の気管を切断して絶息していた。女はすぐさま県立千葉病院に入院させたが、生命はおぼつかない。

「薄化粧をした22歳ぐらい、色白の美人で、中流以上の令嬢ふう」の女と、「運転手ふうの好男子」

  この時点では身元などは分かっていない。記事は続く。