そんな中、鎌子の容体をめぐる報道は連日続いた。3月10日付(9日発行)報知夕刊には「生き残つ(っ)た鎌子」の記事が。表現がすごい。

「魔の恋にのろわれて、家も名も夫子も振り捨て、自動車運転手の倉持陸助と共に鉄路のさびと消ゆべかりし身をわずかに長らえて、千葉病院の一室に恥の身を横たえた芳川伯爵家の若夫人・鎌子の容体につき、9日午前5時半、当直の吉田医員は『8日夜から傷の経過はすこぶる良好で、化膿さえしなければ全治することと信じる』と言った」「従って、鎌子が死亡したといううわさは全く虚報で、この様子ならば、大した変化のない限りは助かるものらしいと(千葉)」

 報知の同じ紙面には「食事も摂(と)らぬ芳川伯」の見出しの芳川顕正伯爵の動静を伝える記事も。脇見出しがまたすごい。「呪われた家に、憂ひ(い)の雨は暗かった」。

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 それによれば、門を閉ざして訪問客もほとんどない伯爵邸に、報知の記者が訪れると、書生がこう話す。「伯爵は今回の不祥事を耳になされてからというもの、世間に対して面目ないと言い続け、見舞客にも顔を合わすのが心苦しいとおっしゃって奥の居間に休まれたまま、ろくろく食事もとられず、昨日来、牛乳2合と鶏卵3個を召し上がっただけで、その沈痛なご様子は、はたの見る目もお気の毒でなりません」。結局、芳川顕正は枢密院副議長を辞任する。

 3月10日付東日には「鎌子の罪を宥(ゆる)して 何事も水に流さん 寛治氏の談」の記事が見える。鎌子の夫・芳川寛治が倉持の遺族に対して「後のことは十分相談相手になる」と言い、鎌子に対しても、「悔悟して死を決したのだから、全快すれば、罪を許して何事も水に流してやる心底だ」と述べたという内容。そんな中で、3月10日付時事新報は、事件の思わぬ余波を面白おかしく伝えている。

 心中沙汰で運轉手の解雇 =御屋敷に大恐慌が起る 9日も數(数)名がお払ひ(い)箱=

 芳川伯嗣子の夫人と自動車運転手との心中沙汰があってから、自動車運転手を雇っている、いわゆる山の手のお屋敷などでは非常な恐怖に襲われている。ことに老人のいる家では、もし嫁に間違いでもあっては家の名、祖先の位牌に対して取り返しのつかぬようなことがあってはと、若主人に解雇を迫るというような事実がそこにもここにも実現された。現に9日には既に数名の運転手が解雇されたが、そのうちの1例には、三井物産自動車部出身の某々は同日朝解雇されてきて、あすからの身の処置に迷っているという始末。その保護者は「困ったことだ」と目下善後策を考究中だとか。

“花形”だった運転手という職業

 時事新報は3月15日付でも「獨(独)身の運轉手は 眞(真)平御免 ―心中沙汰の影響 大急ぎで嫁探し」という同様の話題を記事にしている。当時、運転手は花形の職業だった、というと驚くだろうか。

事件の影響で解雇される運転手も(時事新報)

 事件から約2年後の雑誌「新小説」1919年4月号は「風教及び交通問題として輿論(よろん)の騒然たる自働車及び運轉手問題を論究す」という特集を組んでいる(当時は「自働車」と呼んだ)。

 そこに載っている警視庁の統計によれば、事件のあった1917年の東京の車の台数はわずか1311台。まだ物珍しい時代、その便利さと同時に、市民感情への影響が取り沙汰されていた。