「あたかも死体を運び出すように多数の人々に守られて、芳川家の自動車で退院した」
鎌子の動向が再び社会面をにぎわしたのは、退院翌日の1917年4月4日付の紙面だった。社会面トップの東朝は「縞毛布に一身の耻(恥)を包み 鎌子芳川家に歸(帰)る 警視廰(庁)の刑事3名に衛(まも)られ 深更退院し二臺(台)の自動車にて」の見出し。
かねて千葉病院に入院中だった芳川鎌子(27)は引き取り先が決まらないのと新聞記者の警戒のため、幾度も病院から退院を迫られながらも、そのままに日を過ごしていたが、いよいよ3日午前2時30分、縞の毛布に全身をおおい、あたかも死体を運び出すように多数の人々に守られて、芳川家の自動車で退院した。これより先、芳川家では鎌子の引き取り先について各方面に交渉したが、誰も体よく謝絶して受け付けなかったため、やむを得ず本邸に入ることに決まり、警視庁に依頼して、芳川家の自動車672号に家扶(家令の次の専任者)を乗せ、別に三井物産所有の843号の自動車には、別に警視庁に依頼して3名の刑事を乗り込ませて千葉に到着した。
さらに千葉県警察部に警戒を依頼したため、同警察部では3日午前1時ごろから千葉病院玄関前の植え込み内に千葉警察署の角袖巡査部長1名、巡査2名を忍ばせ、厳重な警戒をした。
2台の自動車が千葉病院前に横づけになり、中から現れた警視庁の警官2名はまず病院のくぐり戸を開けさせ、芳川家の林家扶ほか6名を院内に入れた後、くぐり戸を閉ざし、新聞記者の登院を防いだ。一名の警官は玄関くぐり戸のそばに立ち番をした。そして林家扶は一同を鎌子夫人の病室に導き、持ってきた格子縞の毛布で鎌子夫人の全身を包み、家扶、書生らで鎌子を抱え上げた。警官がその周囲を囲んで付き添い、看護婦4名と医員がこれに従って、玄関に着くと、中に立ち番していた警視庁の巡査がくぐり戸を開け、1行6名と千葉警察署の巡査3名、これに千葉病院の守衛4名が鎌子を包囲して自動車内に入れた。(車は)電灯を消し、カーテンを深く垂れて疾走して去った。
それにしてもこれ以上ないほどの警戒ぶりだ。同じ日付の国民新聞も同様の報道だが、「芳川伯爵令嬢・死の戀」によれば、鎌子を乗せ東京に向けてひた走る2台の車を東朝の車が猛追。途中で他社の車が妨害するという「活動写真のような大活劇を演じつつ」(東朝記事)芳川邸に帰ったという。
さらに同紙は、書生が「いまから帰る」と言うと、非常に喜んで声も晴れ晴れと高笑いをしたと書いている。そして、これ以降も新聞は折りに触れて鎌子の消息を伝える。芳川家ではメディアに騒がれるのを恐れ、鎌子の身をひそかに転々と移した。同年4月14日付東日はその隠れ家を突き止めている。