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 おかしいのは、鎌子は既に人妻ではなく、伯爵家の籍から出ている(実際は保護・扶養されているが)。出澤も独身。世間体が悪いのは分かるが、指弾される理由はないはずだが……。それが華族制度というものなのだろう。「離別した妻ですから、どんな放埓をしようとも一向に構いません」「親を捨て、夫を土足にする女……みんな浮世です」という元夫・寛治の談話と、「あさましからずや……」というキャプションの鎌子の写真が付いている。

「鎌子再び家出」の記事。写真説明には「あさましからずや」(東京日日)

「伯の病気については本邸からは何のお知らせもありません」

 次に鎌子がメディアに登場するのは1年以上後、父伯爵の危篤の時だった。1920年1月9日付東朝には「陋巷(狭く汚い街中)に病む 芳川鎌子 父伯の病状を憂ひつつ 天理教帰依は嘘」というベタ(1段見出し)記事。

 父伯爵危篤の報を持って横浜市南吉田町に芳川鎌子の寓居(仮住まい)を訪れると、折柄同女は胃腸病で寝ていた。夫君の出澤佐太郎氏が仕事を休んで看病の労をとっている。わびしげな面持ちで「世間では私が天理教に入るなどと妙なうわさを立てているそうですが、さような考えは毛頭ありませんのでして、何かの間違いでしょう」と、鎌子はこれだけを語ったのみ。伯爵の病気については一言も言おうとしない。横合いから出澤氏が言うには「伯の病気については本邸からは何のお知らせもありません。私どもは毎日の新聞を頼りにご病気の模様をうかがっているのですが、鎌子は非常に心配しているようです」。

 この記事から、鎌子と出澤が再び駆け落ちして、横浜の貧しい住宅に住んでしばらくたっていることが分かる。外形的には夫婦のようだったが、実際に入籍はしていなかったとされる。

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「父伯の訃報に接し 身を責めて泣く」

芳川伯爵の訃報に添えられた鎌子の記事(東京朝日)

 東朝の記者が再び「陋屋(狭くてむさくるしい家)」を訪ねたのは、芳川顕正伯爵が9日午後、死亡したことを伝えるためだった。訃報に添えられた1月10日付東朝の記事。

 父伯の訃報に接し 身を責めて泣く 鎌子と出澤が悲嘆の涙 廃嫡なれば何の報知もなし 此上は罪障消滅を願ふのみ

「せめてこの身が丈夫でしたならば」三月越しの病床の鎌子は、父伯爵の訃報を聞いてすすり泣き、その枕元で出澤は言う。「この人も伯爵のご病状を知ってからは、夜もまんじりとせず、案じ暮らしていました。既往は悔いてもおわびがかなって父君とお別れができようとは存じませんでしたが、鎌子は『丈夫でさえあったら、どんな恥、苦しみに耐えても屋敷へ戻り、ただ一言のおわびと、ただ一目死に顔なりとも拝みたい』と悲しみ嘆いています。これと申すも、皆私どもの不心得からで、返す返す申し訳ない次第です」と嘆息した。「ご病気のこともご逝去のことも、まだご通知は受けません。鎌子としても既に廃嫡の今日、屋敷とは全然関係を断たれているので、致し方がないと諦めてはいるようなものの、当人のこの悲嘆を見ては、私の胸の内はかきむしられるようです。しかし何事も運命と諦め、今後ますます真面目な新生涯に進んで、犯した罪をつぐない、陰ながら伯爵の冥福を祈り、かつおわびするほかはありません」とうちしおれ、鎌子は「父が今少し長らえてくださったなら、おわびのしようもありましたものを。もうその機会も永劫に失せました」と再びよよと泣き入った(横浜電話)。