訃報で繰り返された「寂しい」の文字。しかし…
翌1921年4月24日付読売の社会面には写真付きの1本のベタ記事が載った。
芳川鎌子の 寂しい死 20日中野の龍光寺に葬る
千葉心中の女主人公・芳川鎌子が突然腹膜炎に侵されて、先月の上旬から病を養っていた芝明舟町の櫻井産科婦人科病院で31歳を一期として、行く春の散る花のように父顕正伯の後を追ってさる17日の払暁、寂しく死んで行った。
思えば数奇を極めた彼女の一生である。運転手の倉持陸助との千葉事件を起こしてから、彼女は親にも社会にも捨てられて、同じ運転手の出澤佐太郎と一緒に、浮き世の栄華を離れた寂しい住まいを横浜に始めてから、もはや5カ年の月日が過ぎ去った。彼女がふとした病に襲われてから、夫の佐太郎の心痛ははたで見るのも気の毒なほどであったが、死に行く身の宿命は何とも致し方がない。生家の芳川家からは勘当の身であるし、元より運転手風情の佐太郎には、彼女の入院料さえ覚束ない始末。ほとんど遺骸の引き取り手もないとのことで、芳川家先代の関係から弁護士・青木磐雄氏が進んで葬儀万端を引き受け、府下中野・龍光寺へ鎌子の遺骸はさる20日、寂しく葬られた。
見出しと合わせて「寂しい(寂しく)」が4回出てくる。父親が亡くなってからは生活の援助も途絶え、夫の運転手の仕事で貧窮の生活を送っていた。だからといって、伯爵家の「仮面夫婦」のまま亡くなっていれば「寂しくなかった」と言うのだろうか。
それでもストレートニュースにした読売はマシだった。東朝では同じ日付の「青鉛筆」で3つの話題の1つとして「彼女の31年の短い生涯は一編の悲劇であった」と処理された。後の世には「千葉心中」の言葉と同名の題の演歌が残された。それともう一つ――。1923年4月6日付読売の記事は、鎌子の墓に「このごろは女学生の参詣も多いそうな」とし、理由をこう書いている。
「この墓に参詣すれば、恋愛の勝利者となるとの迷信がはやっているということだ」
事件の中で“見当たらないもの”
この事件はさまざまな有識者に論じられた。与謝野晶子、平塚らいてう、山川菊栄、徳田秋聲……。論旨はおおざっぱに分けると、「夫にも責任があり、鎌子だけを責められない」「不倫をする前に夫と別れるべきだった」「鎌子は虚偽偽善の女ではなく人間らしい」「血統と個人の犠牲になった」……。
時代は、「青鞜」の女たちからイプセンの「人形の家」のノラに代表される「新しい女」が次々出現し始めていた。その中で、事件を振り返るとき、そこに鎌子の肉声がほとんどないことに気づく。特に愛についての言葉が一つもないことに。本当に寂しいのはそのことだ。
その声を圧殺したのだとすれば、それは社会の問題であり、華族制度の持つ理不尽さに行き着く。そこまで論議が進まなかったのは、やはり時代の限界だったのだろう。
【参考文献】
▽「読売新聞八十年史」 読売新聞社 1955年
▽添田知道「演歌の明治大正史」 岩波新書 1963年
▽西沢爽「日本近代歌謡史 下」 桜楓社 1990年