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連載大正事件史

「姦婦ここにあり 渋谷町の汚れ 立ち退け」お抱え運転手との“魔の恋にのろわれた”伯爵家の若夫人バッシングと末路

「姦婦ここにあり 渋谷町の汚れ 立ち退け」お抱え運転手との“魔の恋にのろわれた”伯爵家の若夫人バッシングと末路

芳川鎌子心中事件#2

2022/02/27
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 特集を組むきっかけの1つは鎌子と倉持の事件。特集の中でも、当時早稲田大教授でその後国会議員も務めた安部磯雄も「自動車は、人の乗っているのを見る時は、種々な点で反感も起こるし、また雨天の際などは泥を飛ばされたりして、かなり不快を感ずることもあるが、自分が乗った時は非常に便利にも思われるし、同時に愉快に感ぜられることは、何人も否まれぬ事実であろう」と述べている。

 特集の最後には「東京織物会社職工 野村丑松」という人物の「第4階級の眼に映じたる自働車及び運轉手」という文章がある。第4階級とは労働者階級(プロレタリアート)を意味していると思われ、そこで指摘しているのは、特権階級が所有する自動車と運転手のことだ。

 自動車に乗る。自動車が走る。三越なら三越、白木(屋)なら白木に着く。街上の群衆が一事に目を集中する。運転手が、小粋に小ぎれいにつくり上げた運転手がしとやかにドアを開けて挨拶する。それをきっかけに婦女どもは、さながら女王のような誇りと満足とをもって群衆の前に立つ。時にはことさらコートなどを脱ぎ捨てて運転手に渡す。運転手はうやうやしくいただいて、やがて帰り来る主人を待つ。 

 この一場のフィルムの回転の間に、どれだけ婦女どもが自動車や運転手という対象物のために彼らの虚栄心を満足さし得たことであろう。

 自動車は貴族富豪対労働人関係の悪感を一層強く感じせしめるものです。自動車が美しければ美しいほど、私たちに嘲笑と侮辱を与えます。

 当時の運転手については、同じ特集で当時やまと新聞記者の瀬川畔花が書いている。「軽快なハンチングに瀟洒(しょうしゃ)な洋服を着け、純金腕時計と金指輪に豪奢(ごうしゃ)な運転手ぶりを見せる姿は、地方の青年の功名心をそそるに十分である」。

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「やったやった 倉持はやった」

「倉持運轉手の遺書」を載せたのは3月12日付の都新聞。遺書は岡喜七郎が焼却したと報じられたほか、いろいろなうわさがあった。同紙は「わが社の精探するところによれば、鎌子と陸助のしたためた長文の遺書は芳川家に送られて永久に秘密に付されることになり、わずかに、陸助がしたためた絵はがき3葉のみ遺族の者へ下げ渡された」「昨日午後、わが社は3葉に陸助が記した文句をことごとく探知できた」として内容を次のように書いた(原文のまま)。

1)申上げたき事は山々あるが何とぞお許し下されたし

 3月6日夜 陸助 

 芳川家御中

2)今までいろいろお世話になりました、倉持を人間と思ふて下さるな

 7日夕 倉持生

 芳川若主人様

 出澤大兄

 田中大兄

3)やつたやつた 倉持はやつた、三面記事をよごしてくれ

 3月7日午後 倉持陸

 森田大兄

 出澤、田中はいずれも芳川家の同僚運転手、森田は書生だった。出澤はのちに鎌子と深いかかわりを持つ。絵はがきの字は「薄墨の毛筆で筆跡も乱れがちだった」という。それにしても「やったやった」と書いた心境はどんなものだったのだろうか。

 遺書についてはその後も「倉持のは全部で4枚」「下宿先宛ての遺書もあった」「警察でほごにされた」などとさまざまな憶測を呼んだ。

倉持の「遺書」の内容も報じられた(都新聞)

 鎌子の病状はその間も各紙に報道されている。「鎌子は聾(つんぼ)に」=3月13日付(12日発行)報知夕刊=)、「2週間後には東京へ帰られよう」(3月16日付東朝)……。

「癇癪で困らす鎌子夫人 その平生の我儘(わがまま)が思ひ遣られる」(3月13日付時事新報)は、病院でも鎌子は気が短く、自分の思うようにならないと看護師に対してかんしゃくを起こすと書いている。そんな中で、事件発生から全く報道せず沈黙を守ってきた読売が、「芳川伯家の事」と題して3月17日付からなんと5回連続で社説に取り上げた。要旨をまとめてみる。

 事件は各新聞紙に詳しく掲載されたが、わが読売はいささか思うところがあって全くこの記事を不問に付した。

 われわれが常に憂慮しているのは、現在の新聞があまりに低調に傾斜し、もっぱら低級な興味に迎合し、またそれを助長しようとする傾向、それである。いたずらに好奇心を挑発する記事を満載しようと努め、人の私事に立ち入り、醜行(しゅうこう=みにくい行為)をあばき、その記事がはたして世道人心にいかなる影響を与えるかを顧みないようなもの、例外なく、皆そうだ。

 この際、もし全ての新聞が一切筆を折ってこの事件を書かないようにすれば、たとえ事実報道が抜け落ちると批判されても、人心に悪影響を及ぼさない功績は大きいに違いない。

 私たちはここにおいてこの事件一切を黙殺することに決心した。

 正論であり、誠に立派な社説といえる。それにしても5回続きとは、よほど東朝はじめ他紙の書きぶりが腹に据えかねたのだろう。

冷静だった読売もついに…

 ただ、約3年後の1920年1月8日付では社会面トップで「芳川鎌子、突如大和國(国)の 天理教本山に入る」と報じている。父親の意思で宗教の世界に入りそうになったわけだが、記事の書き出しは「大正の御代に一代の浮名を流した芳川鎌子……」。この間に読売の編集の実権は、軍部とつながりがあるとされる一派に移っていた。