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「姦婦鎌子ここにあり 渋谷町の汚れ 立ち退け立ち退け」

 鎌子の隠れ家を訪(と)ふ(う) 

 芳川家では鎌子の消息を絶対秘密に葬り去ろうとし、岡・前警保局長が参謀となってさまざまなからくりを用いたが、人の目にも口にも戸は立てられぬ。何もかもだんだんに露見し、いまは包むに由なきに至った。

 (東京)府下下渋谷547、寶泉寺の境内に門構えの一軒建ての家がある。高い板塀で囲い、身分の卑しくない人の出入りは折々あるが、表札も掲げず、商人のご用聞きは一切断り、17~18の小間使いが人目をはばかって使いに出る。これぞ鎌子の隠れ家なのである。

 昨日午後、この隠れ家をおとなう。門前に酒屋、八百屋、魚屋の小僧連に往来の人が打ち交ってワヤワヤ騒ぎ立てている。何事かと見れば、門の左方の板塀に「姦婦鎌子ここにあり 渋谷町の汚れ 立ち退け立ち退け」と記してあった。門を入って玄関を訪れると、千葉病院で顔なじみの芳川家の書生・福本君が出てきて「鎌子さんがこちらにいるのは事実です」と答えただけで何事も語らなかった。

 同じ紙面には「老伯(爵)泣て鎌子の悔悟を待つ」「塗潰(つぶ)されんとする 鎌子の籍 寛治氏より離婚の上 戸主伯爵から離籍か」の見出しの記事も。それでも、あくまで庇護しようとする伯爵の意思は紙面からもうかがえる。

 同じ日付の時事新報も「鎌子の所在が知れた =下澁(渋)谷に世を忍ぶ借家住まひ=」と伝えた。さらに4月22日付東朝社会面コラム「青鉛筆」では、家だけでも見ようという野次馬が集まり「(周辺は)毎日お花見かなんぞのようなにぎわいである」と伝えている。下渋谷は当時渋谷町、現渋谷区で、代官山や広尾の周辺地域。そこが隠れ家とは隔世の感がある。

新聞は鎌子の隠れ家を探し当てた(東京日日)

「芳川鎌子 再び家出す」

 一方、その約1年後の1918年5月9日付東日には、「鎌子、寛治君と新高に並んで 昨日は歌舞伎座にお芝居見物」の記事が。「新高」とは桟敷の一角。

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 記事によると、当時、芳川伯爵は激怒して娘を家から追ったが、「かわいい娘をいつまでも手放してはおけぬ。ひそかに伯爵邸に帰参させたのは昨年12月」。それから「人のうわさの75日も過ぎたので」物見遊山で出掛けるようになった。

歌舞伎座見物の記事には誤報のにおいが

 記事には「芳川鎌子の歌舞伎座見物」の説明が付いた、車の中の女性2人の写真が添えられているが、どうもおかしい。当時から「伯爵邸に同居している姉2人では?」という疑問があったようだ。というのは、それから約5か月後、10月14日付の同じ東日に「芳川鎌子 再び家出す また運轉手と同日に =目下市内に潜伏せり」という記事が載っているからだ。

 千葉心中として有名な伯爵芳川顕正氏令嬢・鎌子は府下中野町(現中野区)、芳川家別邸小瀧亭にいたが、またもや伯爵家の運転手・出澤佐太郎(29)と家出した。今月6日夜のことで、伯爵家の驚愕ひとかたならず……

 八方に手を分けて行方を捜索した結果、10日に至って市内四谷区(現新宿区)内(芳川家の名誉を思い特に明記せず)に潜伏していることが分かり、出澤運転手は現場から芳川家に連れ帰り、鎌子は厳重な監視の下にそのまま潜伏場所にいる。老伯は鎌子の再度の不始末に世間に面目がないとして相州(神奈川県)鎌倉の別荘に赴き、一室に閉じこもり、一切面会を避けている。