1ページ目から読む
4/8ページ目

「非常に愛嬌のある顔で、なかなか交際上手な男。艶聞もありました」

 朝日の初報には「情死せる芳川寛治氏夫人鎌子」の説明が付いた晴れ着姿の鎌子の写真が添えられ、記事の末尾は倉持に関する記述になっていた。

 若奥様と運轉手の關(関)係 時々お供して 築地精養軒へ

 運転手・倉持陸助(24)は栃木県生まれで、幼少のころ上京。大正元(1926)年、自動車運転手見習いとして三井物産会社自動車部に雇われ、当時、神田区新白銀町31、加藤秋方から通勤していた。昨年6月、ようやく免状を得て運転手となり、間もなく、麻布宮村町の芳川伯邸に雇われ、引き続き運転手をしていた。同人と親交のある某運転手が言うのには「倉持は身長が低く色は黒いが、非常に愛嬌のある顔で、なかなか交際上手な男。艶聞もありました。お屋敷に行ってからは、若奥さんに気に入られて背広の洋服やいろいろな物を買ってもらったとか言っていました。そして、その奥さんのお供で精養軒に飯を食いに行ったとき、主人と間違われたというくらいで、ちょっと品のいい男です」。また、三井物産自動車部の運転手が言うのには「先刻、警視庁の刑事の人が倉持の身元調査に来ていろいろ聞かれましたが、同人は昨年6月、芳川家に雇われましたが、たびたび遊びに来ます。6日の午前11時ごろに、助手と共に飄然と立ち寄りまして、間もなく飯を食べに行くと出て行ったまま帰ってきませんでしたが、いま思うと、いささか沈んでいたようです」

 精養軒は関東大震災まで築地にあった東京初の西洋料理店。事件をスクープしたのは当時、東朝社会部記者だった広瀬為次郎だった。「文藝春秋」1955年10月号に掲載された「芳川伯爵令嬢・死の戀」でいきさつを述べている。

 それによれば、3月7日、午後11時半ごろ、深夜勤務を終えて帰宅の支度をしていたとき、社会部の長老記者が千葉支局から心中事件発生の電話連絡を受け、女の着物や持ち物の指輪のことを話していたのを聞いて興味を持ち、取材担当を志願した。千葉支局からは、女の身元は不明だが、男の身元と下宿先が分かったと言ってきた。

ADVERTISEMENT

 神田白銀町に行き、大家の加藤あきに戸を開けさせたが、「知らない」の一点張り。いったんは諦めようと思ったが、各社とも千葉支局から興味深い事件として報告が上がってきていて、朝刊でその勝負が決まると思い直した。

 一計を案じ「倉持は大金を持っていて、親族がいなければ縁故者に渡されるかもしれない」と出まかせを言うと、あきは「確かに同居人で、三井物産自動車部に勤めていた」とだけ漏らした。

 三井物産に着いたのは午前1時すぎ。自動車部の宿直所は出入り口が閉められ、戸をたたいて大声で呼んでも応答がない。仕方なく乗ってきた人力車のほろにつかまって高さ3メートルの板塀によじ登り、「倉持が心中した!」などと大声で叫びながら、構内に飛び込んで行った。