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 鎌子及び倉持両人の遺書については、検視の係官と東京から出張した岡喜七郎は、絶対に秘密に付している。岡氏は一応これを見た後、火中に投じて焼き捨て「両方とも誠につまらない遺書で、なんらお話しするほどのことはない」と言っている。だが、最初からこの事件に関係している某氏の談によれば、鎌子夫人の遺書は両親に宛て、倉持は東京の叔母に宛て、いずれも自分の不品行によって先立つ不幸をわびる文句が記してあった。なお、ほかにも縷々(こまごまと)事情を記してあり、想像以上に複雑な関係があったようだという。

 焼却したというのはあくまで岡の言い分のようだが、いまなら証拠隠滅で犯罪。当時も問題になるべき行為だが、伯爵家から全権を委任された“代理人”で内務官僚出身の貴族院議員という大物であれば、警察も検察も文句が言えなかったのだろう。それにしても、本当ならひどい話だ。

 さすがに「遺書の行方 陸助の遺族憤慨」=3月10日付(9日発行)報知夕刊=ということも起きたが、それ以上大きな問題にはならなかった。もともと芳川伯爵家にとって極めて不名誉な事件だが、それに輪をかけるような不都合なことが書かれていたのか。

 考えられるのは、鎌子の遺書が夫との関係に言及していた可能性だろう。だが、岡によって「複雑な関係」も何もかもが全て闇に葬られてしまった。これ以降、メディアの鎌子への攻撃が徐々に激化していく。

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「主人気に入りの倉持は若夫人の機嫌をとることも巧みである」

 その東朝にも「評判の派手者 藝(芸)者のような風(ふう)をして 運轉手と毎晩遊び廻(回)る」という記事が見える。「夫人と昵懇(じっこん=非常に親しい)なる某氏」の談話だ。

「今度心中をした倉持という運転手とはよほど以前から関係があるらしく、毎晩のように(麻布)十番の夜店を一緒に見物して歩いているのを見受けました。そして、その服装も名家のお嬢さんらしい高尚なところは少なく、芸者ふうの派手づくりで、近所の評判になっていたほどです」

 内容から見て他紙と同じ人物のにおいがする。この日の各紙には、それぞれ微妙に違うが、そろって運転手の制服らしい詰め襟を着た倉持の写真が載っている。また、最後の言葉について、東朝は「あなた一人は殺しはしません。私も必ず死にますから安心なすってください」と報じている。

鎌子を「わがまま」「かんしゃくもち」とした報道が多かった(時事新報).JPG

 東京日日(東日=現毎日新聞)は「若夫人は餘(余)りに 倉持を愛し過ぎて不義に落ちた」と分かったような小見出しを立て、「倉持は夫人の癇癪(かんしゃく)の治め人(て)=不義に陥る發(発)端」という記事を載せている。