この昭和事件史は戦前編、戦後編を通して、新聞報道をベースに事件を振り返ってきた。それは後になって事件を振り返って、というのでなく、その当時、新聞の読者としての一般市民が事件をどう受け止めたかに視点を置いたからだった。
しかし、戦後編の最終回となる今回はある女性の半生を追う。事件でもなければ新聞報道は見渡す限り2件、それも社会面の短いコラムと著書の紹介記事だ。著書とインタビュー、雑誌の報道に頼って書くほかない。
正直に言って、それらを通した人物像がどれだけ真実を表しているか、断言できない(これまでの新聞報道が全て真実だったという意味ではない)。異論のない事実関係を提示し、その後はできるだけ客観的に書いて読む人の判断にゆだねる。
ただ、著名な画家の孫娘として何不自由なく育ち、子爵夫人となったが、戦後、占領軍の大物軍人と“ダブル不倫”の関係に。そのつてでGHQへの橋渡しをさまざまに依頼され「GHQの淀君」とさえうわさされた。彼が帰国後は、財閥の一族で大臣も務めた妻子ある大物政治家と恋仲に。銀座のバーのマダムも務めた。彼女が体現した戦後の様相は間違いなく現在につながっている。
その点で彼女=鳥尾鶴代ともいい、のちに鳥尾多江を名乗り、「マダム鳥尾」とも呼ばれた女性を取り上げる意味があるはずだ。なお「ケーディス」は「ケージス」と表記した記事などもあるが、見出し以外は統一する。今回も差別語が登場。敬称は略させてもらう。
「昭和史を華麗に彩った子爵夫人・鳥尾鶴代さんの葬儀がしめやかに…」
明治45(1912)年5月12日、下條(げじょう)小四郎の長女として東京市麴町区(現千代田区)に生まれる。女子学習院初等科、中等科を卒業後、聖心女子学院語学校(聖心インターナショナルスクールの前身)に入学。半年ほど語学を学ぶ。のち子爵・鳥尾敬光と結婚。2児をもうけ現在に至る。
鳥尾多江名義で1985年に出版した自伝「私の足音が聞える マダム鳥尾の回想」の表紙裏の経歴にはこうある。誕生は明治が終わる約2カ月半前。実質的に大正の女性といっていいだろう。死去した日については、訃報の記事は見つからず、人名事典の中には「1970年死亡」と誤報を掲載しているものもある。