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 鈴木昭典「日本国憲法を生んだ密室の九日間」によれば、当時43歳。ニューヨーク育ちでコーネル大学、ニューヨーク大学などで経済学、財政学などを学び、陸軍では港湾の経理管理官などを務めた。「風の強い芝生の上でバーベキューをしながら、話題は終始新しい憲法の話であった」と自伝は記す。「私たちは細かい言葉の意味を相談された。例えばシビリアンを何と訳すか、というようなことである」。

 滄浪閣での会は2回開かれ、鶴代はケーディスに「天皇陛下をどう思うか、戦犯にすべきかどうか、退位すべきかどうか、私の本当の意見を聞きたい」と何度も言われたという。「われわれは何度も会議をしているが、どうしても結論が出ない」とも。鶴代は「人間天皇のご一家で残したい」としている。「皇室の藩屏」である華族とすれば当然ということか。

湘南海岸でのケーディス(右)と鶴代(「私の足音が聞える」より)

 これをそのまま読めば、GSの憲法草案起草作業中のことで、内閣書記官長の楢橋が情報を得るためにケーディスらを接待したようにとれる。書記官長官邸でのパーティーや滄浪閣へのピクニックの日にちははっきりしない。

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「この作業の全ては完全に秘密裡に行われなくてはならない」

 ただ、「日本国憲法を生んだ密室の九日間」を見れば、2月4日から12日までの9日間、起草作業メンバーはGHQのあった皇居お堀端の第一生命館6階のGS大部屋に缶詰め状態。朝から深夜まで議論と草案執筆に追われ、食事をする時間も惜しいとサンドイッチとコーヒーが持ち込まれた。

 初日の4日の会議では「この作業の全ては完全に秘密裡に行われなくてはならない」など5項目の作業上の心得が示されたという。「人権」委員会のベアテ・シロタが深夜、資料集めに図書館を回ったことが同書に出てくるが、パーティーやピクニックに時間が割けたとはとても思えない。

 さらに2月13日、ホイットニー局長がまとまった憲法草案を示した際、日本側は2月8日にGHQに提出した調査委員会草案への回答を受け取るつもりだったため、吉田茂・外相(のち首相)、松本委員長ら「日本側は、はっきりと呆然たる表情を示した。特に吉田氏の顔は驚愕と憂慮の色を示した」とGHQ側は記録している(「新憲法の誕生」)。

吉田茂 ©文藝春秋

 GHQ草案の提示を全く予測していなかったわけで、楢橋が画策できる余地はなかっただろう。楢橋はこの点について書き残していないが、実際にあったとしても2月13日以降、日本側がGHQ案を基に「憲法改正草案要綱」を発表する3月6日までの間か、あるいはそれ以降のことか。とすると、天皇の位置付けなど、憲法に関する話題が出たというのは勘違いか思い込みだったことになるが……。