「私も随分いろいろな目に遭った。子どもたちの疎開の荷物運び、食糧探し、千葉の病院での空襲、苦しい時、困った時、私はいつも一人だった。夫と一緒だったのはたった一度、焼夷弾が庭に落ちた時だけだった」
「夫とはもっと頼れる存在、共に考えてくれる人、苦労を分かち合う相手、ましてや力仕事などは男の人がするものと思っていたのに」
「しかし、私は一人でも生きてゆけると思ったのも事実だった。しかし、女が一人でも生きてゆけると思うのは決して幸せなことではない」
官邸のディナーでの「運命の出逢い」
「(1946年)春も3月に近いある日」と「私の足音が聞える」は書いている。焼け残った東京・世田谷の自宅に戻った鶴代は、女子学習院時代からの親友らと電車の停留所に歩いて向かっていた。占領軍将校の宿泊先になっていた新橋第一ホテルで、有志が戦災孤児救援のバザーを開くためだった。
後ろから来た車が止まり、乗っていた紳士が「乗せて行きましょう」と言うので同乗させてもらい、車の中でバザーの話をした。それが家の2、3軒先に住んでいた、幣原喜重郎内閣の楢橋渡・内閣書記官長(現在の内閣官房長官)だった。
楢橋は弁護士出身。フランスに留学した国際派で、この後、公職追放に。解除後、運輸相(当時)を務めたが、武州鉄道汚職事件で有罪。風貌から「怪物」「政界の惑星」と呼ばれた。
2、3日後、楢橋夫人が家に来て「明後日の夜、GHQの高官を官邸のディナーに招待しているが、手が足りないので日本の上流夫人に手助けしてほしい」と依頼した。2度ほど電話で断ったが、さらに説き伏せられて承諾した。
当時、内閣書記官長官邸は麻布の石橋正二郎(ブリヂストンタイヤ社長)邸を借りていた。当夜、仕立て直した着物で行くと、客はアメリカ陸軍の将校5人と、海軍将校4、5人。メニューはメーンがハンバーグステーキに野菜。酒はウイスキーが主だった。食堂での食事が終わって別室に移り、話し込んだり、音楽に合わせて踊ったりした。
「2人の背の高い将校がやってきた。2人で私たちを見て何かしゃべっていたが、『僕はこちらのご婦人と踊るよ』と、色白のひげの剃り跡も真っ青な、ちょっとシャルル・ボワイエに似た将校が私の方に手を差し伸べた。それは食事の時、私の筋向いに座っていたコロネル(大佐)ケーディスだった」。シャルル・ボワイエはフランス出身の俳優。「ガス燈」などハリウッドでも活躍し、日本でも女性に人気があった。