結婚を決めた理由は…「私は華族になりたかった」
卒業するころ、帝国ホテルの支配人宅でのパーティーに行って知り合ったのが鳥尾敬光だった。祖父は長州(山口県)出身の維新の攘夷派だった鳥尾小弥太。陸軍中将にまで上り詰めた後、貴族院議員、枢密顧問官を務め、その功績で子爵に。敬光は父を早くに亡くし、爵位を継いでいた。
ほかにも付き合っていた男性がおり、お見合いもしたが、鶴代は敬光を選んだ。「鳥尾と結婚することに決めたのには一つの大きな理由があった。子爵の当主だったことだ。私は華族になりたかった」と自伝に正直に書いている。二人は相思相愛となり、1932年11月結婚。夫22歳、妻20歳の若い夫婦だった。
新居の敷地は東京ドーム1個分の広さ!だが…
新居は東京・音羽の敷地7000坪(約2万3000平方メートル=東京ドーム1個分)の広大な邸宅。夫とは「私は自分の思うように生きて行きたいと随分話し合った」。「私は女も男と同じように、自由に生きていくべきだと思っていたのだ」。
しかし、夫の祖母と母との同居で「華族の生活は私にとって格子なき牢獄だった」。「格子なき牢獄」は1939年日本公開のフランス映画の題名で、当時流行語になった。執事と何人もの女中がいて、彼女は何もすることがなかった。すぐに妊娠したこともあって月1回、病院に行く以外は全く外出しなかったという。
夫は背が高く、魅力的でプレイボーイ。祖母と母の愛を一身に受けて育てられた。大学(学習院)を出ても就職しなかったが、屋敷の周囲の土地の地代や貸家の家賃で生活に困らなかったらしい。
それでも彼女は知人に頼んで、車好きの夫を自動車会社に勤めさせ、一男一女を生み、育てた。息子は学習院で皇太子(現上皇)の学友に。鳥尾一家は長年、贅沢な生活を続けた結果、膨大な負債を抱え、土地家屋を売って世田谷に転居。母と祖母を介護して見送り、戦争の時代に入った。
貴族社会と華族制度の終わり
2人の子どもは一時疎開。長男の盲腸手術で千葉市の病院にいたときには空襲にも遭った。夫は出征したが、神経痛を理由に1年足らずで帰宅した。その夜、2人はタキシードとイブニングドレスで2人だけのパーティーをした。「2人とも口には出さなかったが、美しい贅沢な貴族社会の風習や華族制度が終わりに近づいていることを知っていた」と自伝に書いている。
空襲が激しくなると、嫌がる夫を残して軽井沢の別荘に疎開。モンペ姿で買い出しもして生活を支え、敗戦を迎えた。