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 昭和電工は、日本で初めてアルミニウムを国産化した日本電気工業と、国産技術による初の合成硫安製造に成功した昭和肥料が1939年に合併して設立された、森矗昶率いる森コンツェルンの中核企業。

 戦災で工場が打撃を受け、復興のために復興金融公庫の融資に依存したとされる。融資額は疑獄発覚までに計25億円(現在の約257億円)以上に上ったという。のち、新潟県の工場から出た排水の有機水銀が原因で第二(新潟)水俣病を引き起こす。

昭電疑獄に抗議する集会に集まった人々(「画報現代史 戦後の世界と日本第5集」より)

 鳥尾鶴代が“昭電事件の陰の女性”とうわさされるようになるには、当然それまでのいきさつがある。「私の足音が聞える」を基に、適宜引用しながら彼女の軌跡をたどろう。

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「祖父が死ぬまで私は家の中の女王様だった」

「私の足音が聞える」の紹介記事(朝日)

 鶴代の祖父・下條桂谷(本名・正雄)は予備役主計大佐で有名な日本画家。貴族院勅選議員でもあった。東京・麹町の大きな屋敷で生まれ育った鶴代を「祖父は溺愛し、その祖父が死ぬまで私は家の中の女王様だった」(同書)。

 父は三井物産の社員だったが、おしゃれで派手で遊び好き。母は「主婦のすることは何もしない人」「良家の若奥様」。父母とも「美男美女という言葉のあてはまる人だった」。自分については「十人並み以上の美しさといえる、目の美しい丸顔の少女で、皆に言わせると大変頭もよかったらしい」と書いている。

 学校は祖父や両親が協議して女子学習院に決めた。同校は華族の子弟を教育する学校だったが、このころには華族以外の子どもも受け入れており、彼女は初等科の試験に合格。もう1人の子と2人、「平民の子」として入学した。学校生活はいいことばかりではなかったらしい。

「少女になるにつれ、美しいと人々に言われるようになった。しかし…」

「週刊サンケイ」1954年8月15日号の対談で、ジャーナリスト・政治評論家の岩淵辰雄に「とことんまでいじめられたんざんすよ」と語っている。友達から華族会館の映画会に誘われ、行く気になっていたら当日、「華族以外は駄目なんですって、平民はね」と言われたこともあった。

 それでも「すごく開けっ広げな性格で嘘がつけない」(自伝)少女はすくすく育った。学校の成績も音楽以外は全て「甲」(当時は成績は「甲乙丙丁」でつけられていた)。自伝にこう書いている。

 私は、血統としてはサラブレッドといえるだろう。少女になるにつれ、美しいと人々に言われるようになった。学校の成績も、父兄会に母が行く度に「頭の良いお子さんです。ことに数学は抜群で、暗算はクラス一の速さで正確です」と言われてくるようになった。しかし、だんだん高学年になると、このサラブレッドは勝手に場外を走り回るようになった。いつも先生から「おつむは良いのに困りますね!」と言われるようになる。つまり私は自由奔放に生きたがり、おしゃれをしたがる。今では何でもないことだが、当時は目立った。
 

 女学校(中等科)を卒業するころは、私はもう男子学生と遊び歩いていた。

 聖心女子学院語学校に進学。「当時のモダンガールになって青春を楽しみだした」。夏は千葉の海岸や軽井沢で遊んだ。周りには男の子たちがいた。「そのころとしては、不良少女のはしりだったかもしれない」。