3人はGHQの軍人だった
もう1人の将校はローレル(ラウレル)中佐。ほかにハッシー中佐もいたという。3人は日本占領を担当したGHQ(連合国軍総司令部)民政局(GS)の軍人で、ケーディスはGS次長だった。古関彰一「新憲法の誕生」に記載された経歴を要約すると――(以下は1946年1月当時のもの)。
チャールズ・L・ケーディス、陸軍歩兵大佐。ニューヨーク州ニューバーグ出身。40歳。コーネル大学、ハーバード大学ロースクール卒。 ニューヨークの法律事務所勤務、連邦公共事業局、合衆国財務省の各法務職員を経て1942年、軍務に就き、歩兵学校、指揮参謀学校卒業後、陸軍民事局勤務から南フランス進攻、アルプス作戦、ラインラント作戦に従軍。勲功章を授与された。
アルフレッド・R・ハッシーは海軍中佐。44歳でハーバード大学、バージニア大学ロースクール卒。弁護士実務に従事したり補助裁判官を務めたりした後、海軍では太平洋地域の補給・輸送・法務などを担当していた。
マイロ・E・ラウレルは陸軍中佐。スタンフォード大学卒業後、ハーバード大学ロースクールを経てスタンフォード大学ロースクールを卒業した42歳。弁護士を開業。ロスアンゼルスで合衆国法務官を務める。陸軍入隊後、憲兵総司令部所轄学校、陸軍軍政学校、民政訓練学校を卒業。太平洋地区での部隊指揮で青銅勲章が授与された。
1946年1月末、日本政府の憲法問題調査委員会(委員長・松本烝治国務相)は君主制を維持する“旧態依然”の試案を作成。それが閣議で審議されているさなかの2月1日、毎日新聞が内容をスクープした。
強い不満を抱いたGSのホイットニー局長の進言で総司令官のマッカーサー元帥は2月3日、「天皇元首」「戦争放棄」「封建制廃止」の「マッカーサー三原則」を例示。ホイットニー局長は翌4日、ケーディスら行政部員を集めてGHQによる憲法草案起草作業に入る。
内閣書記官長官邸のパーティーに出席していた3人はその中心となる運営委員会のメンバー。その下に「前文」「立法権」「司法権」「地方行政」など6つの委員会(作業班)が置かれた。
「天皇陛下をどう思うか、戦犯にすべきかどうか、退位すべきかどうか」
「私の足音が聞える」にはその時のパーティーでの会話内容は記されていない。その2、3日後に新橋第一ホテルの占領軍将校たちのディナーに呼ばれた後、そのまた2、3日後に楢橋から電話があり、特殊な将校を伊藤博文の別邸だった大磯の滄浪閣へピクニックに誘うので来てほしいと言われた。そこにはケーディス、ハッシー、ラウレルのほか、「財政」委員会を1人で担当した(フランク・)リゾー陸軍大尉も来ていた。