昭和の時代には、人や物を地域から別の地域に運ぶ連絡船が全国各地にあった。特に国鉄(現JR)が運航していた本州と北海道、四国を結ぶ航路は大動脈だった。
今回取り上げる洞爺丸転覆事故をきっかけに青函トンネルが完成。複数の本四架橋も実現して国土の姿が変化し、連絡船の影は薄くなった。それだけでなく、事件が起きた1954年は、日本が敗戦による占領から独立を果たして4年目。戦争と占領の時代をなお引きずった動きと、それとは方向が異なった新しい動きが入り乱れていた印象がある。
死者・行方不明1155人という、イギリスの客船タイタニック号の沈没事故に次ぐ世界でも2番目に大きい、日本最大の海難事故は、その根底に根深い時代の影をひそませ、現在にもつながる色彩を帯びていた。今回も差別語、不快用語が登場する。
東京に「戦後最強の風」が吹いた
その台風の発生は北海道の地元紙・北海道新聞(道新)の1954年9月22日付(21日発行)3面2段で報じられた(共同通信配信記事か)。
台風15号発生
中央気象台は21日午前3時、グアム島西方約800キロに台風15号が発生したことを確認した。同台風は同日午前3時現在、北緯13度30分、東経137度30分にあって毎時24キロの速さで西または西北西に進んでいる。中心示度(気圧)985ミリバール、中心付近の最大風速は20メートルとなっているが、まだ詳しいことは分かっていない。
佐々木良一「台風第15号の経過概況と洞爺丸遭難当時の函館付近の気象」(「天気」1954年10月号所収)によると、台風は飛行機観測でそれほど発達していなかったので、いったん弱い熱帯低気圧とされ、9月23日朝から再び発達して台風に“再昇格”。バシー海峡東方で進路を変えて急速に加速した。
南西諸島の西を北東進。9月26日午前2時ごろ、鹿児島県に上陸した時には時速100キロの猛烈な速度になっていた。大分、松山、広島、米子付近を通過。日本海を進み、同日午後9時ごろには、北海道南部西岸の寿都沖に達した。それまでに西日本を中心に各地で被害が続出。9月26日付朝日夕刊には「スピード台風15号 東京、戦後最強の風」が見出しの記事が載っている。
被害は14府県で死者20人、家屋全壊614戸など。東京でも平均最大風速26.8メートルを記録した。しかし、それはまだ「序曲」に過ぎなかった。9月27日付(26日発行)道新夕刊には「台風15号 今夜道南へ」の見出しが躍っていた。