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「あんなにひどい暴風になるとは……」

 こちらにも高見局長の談話が載っているが、毎日号外に比べてかなり踏み込んだ内容だ。

▽港外の一切の責任者、洞爺丸船長・近藤平市氏は30年来の老練な船長で、気象上の判断で間違いがあったとは考えられない

 

▽われわれの推定になるが、あの当時の状況から、あんなにひどい暴風になるとは思わなかった。26日午前11時、函館海洋気象台から出た暴風雨警報は「海上20~25メートルの風」ということだった。25メートルぐらいの風なら、いままでにも青函連絡船は運航しているし、出港前の午後ごろは、風が弱まってきたので、もう大丈夫だと思ったのではなかろうか

 

▽中央気象台の発表によると、26日午後6時ごろには、台風15号の中心は渡島半島を通過。足取りは非常に速いとのことであった。6時すぎの風が収まれば、後は大したことはないとみていいだろう。出港してみたところ、港外の模様が悪いので、既定の通り、仮泊場所でいかりを下した。しかし、あの風では防ぎようもなく発電故障、エンジン故障、浸水などが続き、午後10時26分座礁。そののち連絡が途絶えた

 

▽26日午後6時ごろ、函館市内は停電。われわれはラジオも聞こえなかったが、洞爺丸は自分で気象観測資料をキャッチしている。ちょうど28日夕刻ごろから、札幌管区気象台が「台風は分裂した」という判断をして中央気象台との食い違いを見せた。そのため、しばらく台風の位置など、観測資料の発表が遅れたようだ。その点から近藤船長の判断に狂いを生じたのではないかと考えている

 中央気象台は気象庁の前身。同じ日付の毎日は1面で「この惨事はなぜ起ったか」と問うている。そこでは、生き残った乗客の話などを総合すると、船長の判断で乗客のほとんどは救命具を着けていた。SOSは転覆の約30分前に打たれ、青函船舶鉄道局は函館海保の巡視船「おくしり」や近くにいた汽船、漁船に救助を要請したが、いずれも自分の船の安全確保に必死で洞爺丸に接近できず、陸からの救援もなく、見殺しにする結果になったとした。

転覆現場には多くの人が救助に集まった。右上方に船腹を見せた洞爺丸(「決定版昭和史」より)

事件に対し、気象台は…

 その記事の脇には「予報に誤りなかった 気象台の見解」の見出しで中央気象台お天気相談所長の見解が載っている。それによると、9月26日正午に、札幌管区気象台が「昼すぎから風が強くなり、陸上では最大風速20ないし25メートル、海上では25メートルないし30メートルに達する」という暴風警報を発令。青函局が運航計画の基にしていた函館気象台の予報も同様で警報が出ていた。

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 一般的には風速25~30メートルでは警報は出さないのが普通で、気象台が警戒していたことが分かる。「瞬間風速(突風)は最大風速の5割ないし10割増し(時には3倍)と考えるのが気象上の常識で、この常識を基にすれば、予報に誤りはなかったといえる」という結論だった。

事故現場見取り図(「洞爺丸遭難追悼集」より)

 一方、読売は「複雑な責任問題 気象誤報か、船長誤断か」の見出し。「問題は、このような強風のさなかに出港したことにあり、それは船長の判断の誤りか、船長の判断の基礎となった気象情報に誤りがあったのではないかと複雑になってくる」とポイントを絞り込んでいる。

 この日の夕刊の同じ紙面では、「国共内戦」で一時中断されていた中国からの引き揚げが再開され、元軍人ら566人を乗せた最初の引き揚げ船興安丸が27日午前、京都・舞鶴港に入港したことが報じられている。また、事故の3日前の9月23日には、3月に南太平洋でのアメリカの水爆実験で“死の灰”を浴びた漁船「第五福竜丸」の久保山愛吉・無線長(40)が死亡。悼む記事が連日紙面に載っていた。戦争の爪痕はまだ消えない一方、その後の世界の動向をうかがわせる動きが起きていた。

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 生々しいほどの強烈な事件、それを競い合って報道する新聞・雑誌、狂乱していく社会……。大正から昭和に入るころ、犯罪は現代と比べてひとつひとつが強烈な存在感を放っていました。

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