9月28日付朝刊。懸命の救助作業はまだ続いていたが、このあたりから新聞紙面はヒューマンストーリーと原因・責任のありかにポイントが移っていく。朝日と毎日は1面トップで生き残った洞爺丸の「最高責任者」の証言を報じた。乗組員の話が新聞紙面に登場したのは初めて。「台風をアマく見た 後部甲板浸水が打撃」というややショッキングな見出しの朝日の記事は――。

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【函館発】洞爺丸の二等運転士(航海士)阿部喜代二氏(43)は27日夜、生き残った同船乗組員中の最高責任者として函館中央署員に証人供述を行ったが、供述を終えてから同船転覆の経過を次のように語った。阿部運転士は海上生活26年という老練船員であるが、同氏はもとより乗組船員たちも「転覆の危険を全然感じなかった」ことを明らかにし、さらに「結果的にみれば、台風15号を甘くみたかもしれない」と語った。

 船は午後2時50分にたつ予定だったが、波が激しく、引き返してきた(同じ青函連絡船の)第十一青函丸の乗員やボギー車(鉄道車両の一種)を移乗させたりしたため、出港を延ばした。5時半ごろ、天気がよくなった。出港前の5時ごろには、乗客を降ろそうかという話も聞いたが、ナギ次第青森に行くのだから乗せておいてもよいのではないか、という考えで降ろさなかった。5時半に青森に行くことが確定した。6時39分、青森まで行くつもりで出港した。

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 ここでは語られていないが、第十一青函丸から移乗したのはアメリカ軍の兵士ら170人余りだった。証言は続く。

事故の責任をめぐって、さまざまな見方が……(読売)

事態を悪化させた「猛烈な風」

 しかし、出港直後、有川桟橋でも32メートルぐらいの風があった。海上は予想以上にひどいのだろうと、防波堤の外に出てイカリを入れた。ちょうど7時10分ごろだった。位置は灯台から1マイル(約1.9キロ)ちょっと離れていた。当時27~35メートルの南西風が吹き、うねりが大きかった。

 当時港内には2、3隻、港外には5、6隻停泊していた。アンカーを下してから予想以上の風が吹き、9シャックル(約200メートル)もアンカーを流したが、ツメがかからず流された。エンジンもかけて船の位置を固定しようと試みた。8時すぎ、左のエンジンは止まり、しばらくして動きだしたが、間もなく右のエンジンが止まった。10時ごろになって、両方のエンジンが全く使用不能になった。これは貨車甲板の積み込み口から追い波が入り、石炭をまじえて汚水口にたまったためで、吸い上げポンプも使えず、石炭がたけなくなってついにエンジンが止まったのだ。船が傾斜したのは、左エンジンが止まって間もなくだった。

 このときは座礁ではなく、波で40度ほど傾斜したのだった。その後間もなく大きなショックを感じた。10時26分。これで座礁を確認した。船長の命令ですぐSOSを打電。間もなく船は横転した。この間、7分から10分ぐらいだっただろうか。私は終始船橋にいたが、このとき右側の方から水に洗われ、海中に押し流されてしまった。座礁前に傾斜したときも、転覆するというような考えは浮かばなかったし、客に「慌てないでください。大丈夫です」と叫ぶ船員の声を聞いた。