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運命を分けた2分の停電

 この裁決はその後の改善に一定程度つながったとされる。全ての船長にゆだねられていた運航決定権は青函局の指令と協議で決定を下すように変更。船体は車両甲板の搭載口に防水扉を設置するようになった。

 それでもやはり最大の責任を死者に押し付けた印象は否めない。近藤船長はなぜ台風の強風下に出港を決断したのか。二等航海士だった山田友二氏は海難審判の受審人にもなった人だが、全日本船舶職員協会の機関誌「全船協」2020年1月号から「青函連絡船“洞爺丸”二等航海士の回顧録」を4回連載。その中で当時のことを回想している。

一審の裁決は国鉄と船長の責任を認めた(道新)

 1954年9月26日午後3時ごろ、(第十一青函丸からの)乗客・貨車の移し替えを終え、いったん出港しようとします。ところが、貨車の搬出入に使う可動橋が上がりません。「可動橋を上げなさい」。船尾にいた私が桟橋の職員に声を張り上げると「停電で上がりません」という返事が。近藤船長に報告すると「テケミする」と告げられました。テケミとは「天候険悪運航見合わせ」の意味で、台風が通過するまで出港しないという判断です。船長は「天気図」というあだ名がつくほど天気に詳しい人です。危険回避と定時運航を守るプレッシャーの狭間で悩んだ末の決断と思います。もし、このトラブルがなければ、洞爺丸は台風の直撃を避けて青森に着いていたはずです。停電は2分ほどで回復したので、わずかな差が運命を分けたといえます。

 後に分かることですが、台風は勢力を保ったまま、予測よりも西側を進み、急激にスピードを落としていました。気象状況にも変化が生じます。午後5時ごろ、天候が晴れて、函館山の上から西の空にかけて青空がぱーっと広がりました。私を含め、誰もが「台風の目が近づいている」と思いました。

 北海道に近づく台風は温帯低気圧に変わり、勢力が弱まるのが通例です。私たちは「じきに海は凪(な)ぐ」と見込んでいました。

 近藤船長も風が和らぐと判断したのだと思います。近藤船長は出港することに決め、「18時半(午後6時30分)に出港」と指令を下しました。

 ここで台風の目とされたものが実は違っていたことが中央気象台の調査で分かる。秋田沖に達した台風15号はそれまで時速100キロの猛スピードだったのが、時速40キロに急激に低下。そのまま北上して奥尻島付近に達していた。それは北のオホーツク海に高気圧があって行く手を阻んだためだった。

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 さらに、風が弱まって晴れ間が現れたのは、台風の南にあった寒冷前線に伴う冷たい気流と、台風の中心付近に向かって反時計回りに吹き込む風が衝突。寒冷前線が急激に消滅し、その過程で一時的に晴れ間が広がったのだという。

二審の裁決もほぼ変わらなかった(夕刊読売)

船長を取り巻く状況を見てみると…

 さらに近藤船長にはプレッシャーがかかっていた。樋口晴彦・警察大学校警察政策研究センター教授「組織の失敗~その原因を探る04」(「安全と健康」2010年4月号所収)は「鉄道連絡船は『海上鉄道』という位置付けであり、函館・青森発着の列車に接続するように正確に運航することを当初から求められていた」と言う。「つまり、青函連絡船では、ダイヤを守るためにあえて航海の危険を冒すことが以前から行われており、そのような現場慣行が洞爺丸事故を引き起こしたと考えられるのだ」。