コロナ禍によって国民生活の娯楽にも様々な制限がかかる昨今。とりわけ、飲食店での酒類の提供禁止は大きな波紋を広げることになった。

 1933年、日本が戦争へ向かう昭和の時代にも、同様に娯楽への取り締まりがピークを迎える事件があった。ジャーナリスト・小池新の『戦前昭和の猟奇事件』が1冊の本になるのを機に、当該の事件について再公開する。

◆◆◆

 いまの時代、「ダンスホール」とはどんなイメージで捉えられるのだろうか。「新明解国語辞典」には「社交ダンス用の(有料の)ダンス場」とある。

 しかし、昭和の初め、その言葉は華麗に花開いた都市文化のイメージの上に、さまざまな用語と関連づけて語られた。「モボ・モガ」「有閑マダム」「ジゴロ」「乱倫」……。そのことを強烈に印象づけたのが1933年のこの事件だった。

ADVERTISEMENT

 男性客と女性ダンサーの恋愛沙汰やトラブルはそれまでもあったが、今回は「ダンス教師」を名乗るいかがわしい男たちと、伯爵夫人、日本を代表する歌人の妻らが検挙され、そこから作家ら文化人の違法賭博にまで警察の手が回った。

東京のダンスホールのチケット(「考現学採集」より)

 事件当時は既に日中の戦争が始まっており、戦争の影が市民生活を圧迫。国民の娯楽に取り締まりの手が延びていた。やがて盧溝橋事件に端を発した日中全面戦争に突入。ダンスホールは徐々に息の根を止められる。事件は「享楽の時代」の最後のあだ花だったようにも思える(今回もさまざまな差別語が登場する)。

ダンスホールは「華やかな人生の縮図」

 かつてのダンスホールはどんな所だったのか。事件の年に出版された高橋桂一「新社交ダンスと全国舞踏場教授所ダンサー案内」の記述から雰囲気を想像してみよう。

 ジャズが鳴る。ざ、ざあと靴音が響く。まるでうららかな春日を浴びた北海の磯打つ波がざあーと押し寄せては返す波の音に髣髴(ほうふつ)としている。むせるような人のいきれ、ふうわりと鼻にまつわる脂粉の香り。七色の光線に躍る白い顔、細い眉、くまどった紅いまぶた――。ダンス場の光景はまさに生きた絵であり、華やかな人生の縮図である。ダンス場になじまない人々は、ダンス場に燃え立つ熾烈(しれつ)な刺激と甘い蜜のような感触に、誰しもはじめは軽いめまいをすら感じるであろう。抑えきれない動悸(どうき)の高鳴りに胸ぬち(のうち)がほてるのを覚えるだろう。事実、いまのダンス場の雰囲気は、現実とはあまりに懸け離れたなごやかな美しさで彩られているのである。

 日本のダンスホールのルーツは明治の文明開化時代の鹿鳴館にさかのぼるといわれる。当時は一部の上流階級で行われていただけで、一般社会で流行するようになったのは第一次世界大戦終結後だとされる。

 当初は大阪の方が盛んだったが、1927年に風紀上の理由から府当局が厳しい制限を加えたうえ、最終的に営業を禁止。隆盛は東京に移った。永井良和「社交ダンスと日本人」は「1927年はわが国ダンス界の『黄金時代』の幕開けとなった。翌1928年もこの勢いは止まらず、ダンスホールの開設ラッシュが起こる」と書く。京橋、渋谷、青山、溜池……。