罰則、許可取り消し…それでも生き残った「八大ホール」
ところが「ホールの増加を警視庁は放置しなかった」(同書)。早くも1928年11月には「舞踏場取締規則」を制定。ダンスホールを許可営業とし、特定の条件を満たさなければ、罰則や許可取り消しを下すとされた。その結果、「八大ホール」と呼ばれる大型のホールだけが生き残ることに。それでも、ダンスブームは根強く続いた。
1929年、当時150万部超の驚異的発行部数を誇った雑誌「キング」に連載された菊池寛の小説「東京行進曲」が話題となり、日活が映画化。同名主題歌が西条八十作詞、中山晋平作曲で発売され大ヒットした。その中で「ジャズでをどつて(踊って) リキュルで更(ふ)けて あけれや(明けりゃ) ダンサァの なみだあめ(涙雨)」とうたわれた。
当時のダンスホールはチケットシステムが基本だった。
客は入り口で10枚つづりのチケットを買い、クロークに荷物を預ける。ミラーボールがきらめくホールでは、バンドが最新流行のジャズを演奏している。客席とダンサー席はフロアを挟んで向き合っている。ダンサー席は中央から左右に席次が決められている。前の月にチケットを最も多く回収したダンサーがいわゆる「ナンバーワン」で、正面の中央に座る。この席に着くことは誇り高い職業意識を持つダンサーの中でも最高の栄誉とされた。客はダンサーと踊るごとに1枚のチケットをダンサーに渡した。
客は次の曲の前奏が鳴り出すと同時に、お目当てのダンサーの席に向かって行き、踊りを申し込む。複数の客から申し込みがあった場合は、ダンサーが客を選んだ。回収されたチケットは月に1度の締め切り日に集計され、所定の比率で経営者と分けられた(一般的にはダンサー4に対し経営者6)。これがダンサー、経営者の主な収入源である(「社交ダンスと日本人」)。
そのうち、「有閑マダム」や令嬢らの姿がダンスホールに見られるようになった。彼女たちが踊る相手は男性ダンス教師らだったが、それも同様にチケットシステムだった。
「不倫と恋のステップ」
そんなダンスホールをめぐるスキャンダルが紙面を騒がせたのは1933年11月。初報は8日付各紙朝刊に一斉に載った。東京朝日(東朝)社会面4段の記事の見出しは「醫(医)博、課長夫人等々 不倫・戀(恋)のステップ 銀座ホールの不良教師檢擧(検挙)で 有閑女群の醜行暴露」。
京橋区(現中央区)京橋2ノ8、銀座ダンスホールの教師エデー・カンターこと田村一男(24)は同ホール常連の有閑マダム、令嬢、女給、清元師匠、芸者らを顧客に情痴の限りを尽くし、目に余るその不行跡に警視庁不良少年係も捨て置けず7日、ついに同人を検挙。取り調べると、この不良ダンス教師をめぐる有閑女群の中には青山某病院長医学博士夫人などの名も挙げられ、醜い数々の場面を係官の前にぶちまけている。
田村検挙の端緒は去月(10月)7日、警視庁が与太モン一斉狩りを行った時、同ホールの不良ダンス教師、朝鮮生まれ木村政雄こと車均敞(36)がパリ大学文科出身と称して、虚栄に走る有閑女群をもてあそんでいたのを突き止めて検挙し、調べているうち、その後だんだん、彼と同僚の田村一男の不良ぶりが分かってきた。