「週刊朝日」1946年4月14日号には「三郎ちゃんを殺したなどとは全く自分でも考えられませんと語り、仁左夫妻には全くすまないと思うし、妹もかわいそうなことをしましたなどと、全然凶悪犯にはなっていない肝っ玉の小ささをさらけ出している」とある。
「捜査課長メモ」は仁左衛門事件の項の最後にこう書いている。「無念の形相ものすごく、虚空をつかんでこときれていた名優仁左衛門の最期は、舞台における優れた演技と二重になって、私の眼底からいまなお消えようとしない」。
3月26日付東京は2面に「どう見るか“仁左殺し”」という記事を大きく載せている。東大、明大教授などを務めた富塚清が「理学博士」の肩書で、「事件は栄養失調からくる神経衰弱の結果。現在の1日2合1勺の配給では栄養失調にかからざるを得ない」との見方を示した。
ほかに社会党(当時)教育部長が「昔のままの主人対同居人の関係」と指摘。共産党中央委員は「食糧の人民管理」の必要性を強調したが、それらよりすごいのはリード。「はたしてこの事件は、このまま一片の殺人事件として葬り去ってしまっていい問題だろうか。新聞が日々伝えたごとく、この事件の根底にはすさまじい“食”生活の葛藤があった。それは犯人の告白によって見苦しさをいよいよ明るみに出すに至ったが、かかる事柄は、他人を殺害するには至らぬまでも、大なり小なりいまの一般社会では、誰も日常生活で経験する問題ではなかろうか? 地に落ちた政治の貧困、底をついた道徳の腐敗、この中から生まれ出たこの事件を各方面はいかに見たか、そしていかになさなければならぬか――」。記者も食糧難に身につまされていた表れだろうか。
「ジャガイモ泥棒」を殺して「正当防衛」!?
確かに当時の食糧難はいまからは考えられないすさまじさだった。「戦争末期から戦後にかけての最大の問題は食糧危機であった。食糧の生産と輸入の縮小は国民の生命を直接に脅かす要因であったから、その解決は戦後において最も切迫した政治的課題となった」。正村公宏「図説戦後史」はこう述べ、「米の生産は1935年に862万トン、その後のピークである1939年に1035万トンであったが、1945年には587万トンに低下した。1935年に比較して68%にすぎない」として次のように指摘する。
農村の働き手たちが大量に軍隊に動員されたこと、軍需優先のために化学肥料などの農業用資材の供給が不足したこと、山林の乱伐や治山治水事業の遅れの影響で水害が多発したことなど、さまざまな原因の複合的作用によって農業生産の低下が起こった。1945年の枕崎台風や1947年のキャサリン台風などの大規模な風水害も戦後の農業生産を破壊した。太平洋戦争以前のピークと比較すると、1945年の生産は米が56.7%、麦が63.2%という水準に落ち込んだ。そのうえ戦争末期には米の輸入・移入も途絶した。そのため、終戦翌年の1946年は深刻な食糧危機の年になった。
事実、敗戦の前後には食糧不足にまつわる、信じられない出来事が続出した。「昭和史全記録」で主なものを見ると――。