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 演目では「鼠小僧」や「佐倉義民伝」はいいが、「忠臣蔵」をはじめとして「勧進帳」「熊谷陣屋」「義経千本桜」「番町皿屋敷」などはいけないということになった。時代狂言の大部分は上演不可能となり……と同書は書いている。

 そうした流れの帰結だろうか。年が明けた1946年1月20日付東京は「歌舞伎一齊に消ゆ 今後は舞踊のみ上演」と報道。その後、訂正記事が出たが、さまざまな擁護論もあり、論議が続いた。

敗戦と占領で歌舞伎は危機にさらされた(東京新聞)

 結局、フォービオン・バワーズら歌舞伎に理解のあるGHQ関係者の援助などもあって、1947年11月に演目禁止措置は解除。歌舞伎は消滅の危機は免れる。一方で、戦中から戦後にかけて十五代目市村羽左衛門、七代目松本幸四郎、六代目尾上菊五郎らが次々病没。歌舞伎全体が大きな危機の中にあった。

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「あれだけの美貌と芸の所有者としては…」冷ややかだった歌舞伎界

 片岡仁左衛門について、美貌に異論はないが、歌舞伎役者としての評価はさまざま。ただ、歌舞伎がそうした状態でGHQに対する遠慮があったとはいえ、大名跡の死に対して歌舞伎界は冷ややかだったといえる。

 事件直後に出た歌舞伎中心の雑誌「演劇界」1946年4月号に追悼記事は見られない。「仁左衛門事件」という2ページの記事で、役者として一定の評価をし、「ジャーナリズムでは仁左衛門をまるで三荘(山椒)大夫のような扱い方をしているのは、いかになんでも気の毒だ」と書きながら、「一部にはごひいきを持っていたが、あれだけの美貌と芸の所有者としては、それほど見物に騒がれなかった。劇場人には不思議なほど嫌われて、これという友達すら持っていなかったのである。舞台を見ても想像される通り、あの冷たい性格が主として災いしたのだが……」としているのはいささか冷たい気がする。

歌舞伎「奥州安達原」の十二代目片岡仁左衛門(右)(「演劇界」より)

 3月20日付東京に載った松竹の総帥・大谷竹次郎の「仁左衛門を追想して」という文章も、「周囲の人がどうしてあんなに世話をするのかと言われるほど実はかわいがってまいりました」と述懐しつつ、「どうも不思議に仲間から嫌われていたのは気の毒でした」と述べている。

「演劇界」1985年6月号の戸板康二「女形余情」は、民俗学者で国文学者の折口信夫が仁左衛門のことを「妙に冷たいところが、この女形の欠点でもあり長所ともいえるね」と言ったことを紹介している。

仁左衛門だけが周囲の人に対して差別的、高圧的だったのか

 総じて「冷たい美貌が不思議な魅力を発揮した」(服部幸雄ら編「歌舞伎事典」)という批評が多いが、それは結果的に事件からのイメージが反映しているのではないだろうか。確かに、仁左衛門夫妻と飯田との関係は、歌舞伎界に残る封建的な主従関係を如実に示している。「オール讀物」1963年7月号所収の戸板康二「殺された仁左衛門」は説明している。