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「幹部俳優の周りには番頭、内弟子、男衆、付き人と呼ばれる人たちがいて、『旦那』の身の回りのことを一切代行する」「俳優が自分に渡された給金から周囲の人々に手当を渡すのが原則になっていた。周囲の人々は俳優に扶持(ふち)をもらっているわけである」「これでは、封建時代の主従のような関係が出来上がっても決して不思議ではない」

十二代目は先代と区別するために「殺された仁左衛門」と呼ばれた(「オール讀物」より)

 飯田にとって仁左衛門は「明らかに主君であった」と「殺された仁左衛門」は書き、その関係も変わりつつあり、仁左衛門と飯田の間に年齢差からくる価値観のずれがあったことを指摘している。その通りかもしれない。しかし、はたして仁左衛門だけが周囲の人に対して差別的、高圧的だったのだろうか。

 同文章は、名優だった十一代目と分けて話す場合に十二代目を、見出しにある「殺された仁左衛門」と言うようになった、と書いている。

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激情から朦朧状態に?

 飯田昭に対する強盗殺人の審理は東京地裁で行われた。1946年10月22日付朝日には「仁左殺し 豫(予)審終了」の見出しで「このほど予審終結。有罪と決定。11月27日東京地裁第8部、相馬裁判長、櫻井検事係りで第1回公判が開かれる」と報じられている。

 期日は延期されたようで、12月7日付同紙には次のようなベタ(1段)記事が。「第1回公判は6日午前10時半から東京地裁で開き、櫻井検事の公訴事実の開陳後、裁判長の問いに対し、飯田は『殺す考えはなかった。ただ、結果がそうなっただけだ』と殺意を否定した」。

 内村祐之・東大教授による精神鑑定が実施された。内容は1952年に刊行された内村「精神鑑定」に収録されている。それによれば、飯田はごく普通の人間で性格的にも異常はないとしたうえで次のように述べている。

「遺伝的にも、生活史の上でも、現在の状態においても、なんら異常のない一人の平凡な青年が、食糧不足に端を発して、徐々ながら主家に対して宿怨を抱くようになっていたところ、犯行前夜、ことに強烈な感情興奮を起こし、激情のあまり平素の鬱憤を発散させてこの凶行に及んだものとみなすことができる」

「心理的には朦朧状態」「当人に責任はない」

 公判で飯田は、犯行時から逃走して川渡温泉に到着し、事件後4日まで「はっきりした記憶がない」と供述した。鑑定はその言い分を「頭から否定できない」とし、留意すべきは鑑定のための「2週間にわたる入院観察期間中、3度にわたって見られた寝ぼけの状態である」とした。「心理的構造からいうと朦朧状態と同じもので、たとえ秩序だった行動ができたとしても、それは無意識状態の中での行動であるから、当人に責任はない」。