「歴史の『もし』という仮定法を……」
ただ、それだけではないだろう。実はこの事件の判決文がどうしても見つからない。「心神耗弱を認めて減刑された」と書いている資料もある。しかし、1947年10月2日付朝日には「仁左殺しに死刑求刑」というベタ記事が載っている。
公判は1日朝10時、東京地裁で開廷。相馬裁判長が、被告の精神鑑定書により、犯行当時正常な精神状態だったとし、櫻井検事は2歳の幼子、実妹を殺し、5人の命を奪ったことは近来まれな残虐行為であると論告、死刑を求刑。次いで原弁護人の弁論があり、片岡夫妻の虐待による精神異常の犯行と論じ、正午閉廷。
「精神鑑定」は判決についてこう指摘している。
「種々の情状が考慮されたに相違ないと思われる。ことに万一にも、犯行が朦朧状態の下に行われたものとすれば、当然心神喪失、あるいは少なくとも心神耗弱を認めるべきであるから、これに極刑を与えることなどはもちろん間違っている。しかし、可能性は十分あっても、当夜はたして寝ぼけが実在したかどうかを完全に実証できない事情を考えて終身刑を判決したとすれば、これは極めて当を得た裁断であるように私は思う」
心神耗弱は認めなかったが、精神鑑定の趣旨を汲んで死刑を回避したということだろうか。「新潮45」2005年9月号所収の「総力特集 昭和芸能史13の怪事件簿 歌舞伎役者『片岡仁左衛門』一家惨殺」で、ノンフィクション・ライター村山望は、判決後、「『食い物の恨みだと言えば命が助かると言われて、申し訳ない』。彼(飯田)は遺族へ宛てた手紙でそう謝罪したという」と書いている。
「警視庁史昭和中編(上)」には「控訴したが、翌(昭和)23(1948)年、これを取り下げて服罪した」とある。さらにその後について、「殺された仁左衛門」は「講和後の恩赦で減刑されたと聞いている。現在、受刑者の一人である」としている。それから何年かして釈放された可能性が強いが、消息を伝える資料はない。天涯孤独になって、それからの時代をどう生きて行ったのか。つらい人生だったに違いなさそうだ。
飯田昭は空襲で実家の肉親と養家の人々を失った。アメリカ軍による空襲は全国150都市に及び、広島、長崎の原爆を含め、犠牲者は少なくとも50万人に上ったとされる。
飯田は北海道の空知炭鉱に動員(徴用)された。1938年の国家総動員法と1939年の国民徴用令などによって、学生を含む国民が軍需工場、鉱山などに動員された。厚生省によれば、終戦直前には徴用工約160万人、学徒動員約243万人、女子挺身隊員は約47万人に達した(「昭和経済六〇年」)。妹のマキ子が川渡温泉に滞在した学童疎開は1944年から始まった。終戦までに東京の19万5000人をはじめ全国で約40万人が疎開したと推計される(「昭和20年/1945年」)。
「殺された仁左衛門」はこう書いている。「歴史の『もし』という仮定法をいうならば、事件の最大の因子は戦争である。敗戦であった」。
【参考文献】
▽「警視庁史昭和中編(上)」 警視庁史編さん委員会 1978年
▽三宅修一「捜査課長メモ」 人物往来社 1962年
▽松井俊諭ら編集「戦後歌舞伎の俳優たち」 社団法人伝統歌舞伎保存会 2008年
▽「キネマ旬報増刊日本映画俳優全集・女優編」 キネマ旬報社 1980年
▽佃順「芸能実話明眸哀史」 グラフ社 1947年
▽正村公宏「図説戦後史」 ちくまライブラリー 1988年
▽「昭和史全記録」 毎日新聞社 1989年
▽いいだ・もも「戦後史の発見 上」 サンポウ・ブックス 1975年
▽河竹繁俊「日本演劇全史」 岩波書店 1959年
▽服部幸雄ら編「歌舞伎事典」 平凡社 1983年
▽内村祐之「精神鑑定」 創元社 1952年
▽久保田晃・桐村英一郎「昭和経済六〇年」 朝日選書 1987年
▽藤原彰ら編「昭和20年/1945年」 小学館 1995年