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連載昭和事件史

「明け方、力尽きて細い最後の声をあげる」極寒の夜、木にくくりつけて…日本の民族性も語られた「鬼畜リンチ事件」

「明け方、力尽きて細い最後の声をあげる」極寒の夜、木にくくりつけて…日本の民族性も語られた「鬼畜リンチ事件」

“第一報”めぐり揺れた「暁に祈る」事件 #1

2021/04/04

 2020年のNHK連続テレビ小説「エール」は昭和の名作曲家・古関裕而がモデルのドラマだった。

 古関は戦前戦中、多くの戦時歌謡を作曲したが、その代表作の1つが1940年の「暁に祈る」。陸軍馬政局が製作した映画「征戦愛馬譜 暁に祈る」(佐々木康監督)の準主題歌だったが、「あゝ(あ)あの顔で あの声で」で始まる印象的なメロディーで広く国民に愛唱された。「詞(野村俊夫)も曲も歌手(伊藤久男)も、渾然一体となった傑作」(塩沢実信「昭和の戦時歌謡物語」)で、古関自身、「私の数多い作曲の中で最も大衆に愛され、自分としても快心の作」(「鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝」)と言う。

 今回取り上げるのは、直接この歌とは関係がない、戦争直後、極寒のモンゴルの捕虜収容所での衝撃的な事件。ただ、このネーミングが悲劇の理不尽さを強烈に表現し、人々の記憶に長く深く刻みつけたことは間違いない。事件は、敗戦後の兵士の抑留の困苦と人間性の喪失など、戦争がもたらす惨害の一面をいまに伝えている。

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「生身のまま冷凍人間」

 それは一本の記事から始まった。

朝日の第一報。センセーショナルなこと!

 外蒙抑留所の怪事 同胞虐殺の「吉村隊長」生残り隊員が語る

 生身のまゝ(ま)冷凍人間 鬼畜!リンチの数々

 

 昨年から今年にかけて、ソ連引き揚げ者たちの中から「吉村隊の記録」という不気味な同胞虐殺の物語が各種の刊行物によって伝えられている。それは吉村という狡猾、残忍な男の支配した不気味で中世的な収容所の事件であるが、「吉村隊」に関する限り、いずれも断片的であるか、創意を交えており、自らの体験ではないところにこの惨劇の実態を証明するよすがもなかったところ、たまたまその吉村隊の生き残りを探し当てることができ、ここに吉川慶作君(26)=港区虎ノ門、晩翠軒ビル内、日本繊維教育用品会社勤務=の話を得た。以下はこの吉村隊の残忍な作業で片腕まで奪われた生き証人が語る現代の「死の家の記録」である。

 1949年3月15日付朝日は2面(当時はまだ朝刊のみ原則2ページ建て)のトップで「真相を語る、片腕をなくした吉川氏」の写真入りで報じた。「外蒙のウランバートルにこの悲劇は始まる」が本文書き出しの証言は、1945年10月、中国・熱河から貨車で外蒙古(当時=現モンゴル)のウランバートルに到着したところからスタートする。

吉村隊が収容されていた建物の図(週刊朝日より)

 吉村隊はその西北の川岸に建った羊毛工場にあった。隊長は吉村と自称していたが、本名は池田だということだった。36、7歳の四角い顔のヘビのように冷たい目をした男で宮崎の生まれ。元憲兵曹長とも言っていた。小学校を出て、苦学して高文(高等文官試験)をとり、神戸で検事をしていたとのことだ。吉村ははじめはただの捕虜にすぎなかったが、捕虜中のゴロツキ、遊び人などをうまく引きつけ、一方、外蒙軍の所長に、自分を捕虜の監督にすれば、全員の作業量を20%一挙に増してみせると売り込み、隊長に就任。一躍中佐の階級に任ぜられた。そこでその広言を実行して地位を不動にするため、酷使と私刑を始めだした。

「高文」のくだりは事実ではないことが後で分かる。具体的な作業内容についてこう述べている。