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 1948年に出版されたソ連帰還者生活擁護同盟文化部編「われらソ連に生きて」の中で栗原康譽という引き揚げ者が、ソ連からの引き揚げ船の乗船地であるナホトカの思い出を書いた文章の中に次のような描写がある。

(19)47年末、外蒙から到着した部隊はさらに悪く、ほとんどが軍隊組織そのままで、その最も陰惨なのが例の「暁に祈る」の吉村少尉である。

 

 彼はこの星(階級)の偉力で兵隊たちをこき使いゼイタクざんまいにふけった。そして、気に食わない者があると、いささかの容赦もなく、私刑に処し、その最も重刑が「暁に祈る」なのであった。美しい名前のこの刑罰はどんなのかというと、夕方兵隊を素っ裸にして、東面して木にゆわえつけるのだ。零下何十度の極寒だからたまらない。翌朝、東の空が白むころには、当然冷たくなっている。そして東に向かって頭を垂れているので「暁に祈る」と呼ばれたのだ。外蒙の抑留者たちを震え上がらせたこの吉村が、ナホトカの兵士大会で摘発されて、自らこの刑で殺したと白状したのが17名。そのとき、列中の兵隊が「うそつけ! 28名だ!」と叫んだ。

木材の伐採作業(「ウランバートル吉村隊 外蒙の虜囚」より)

 当時ナホトカなどでは、抑留期間中の上官の行為を糾弾する「人民裁判」がそこここで行われていた。それは、ソ連で社会主義の「民主化教育」を受けた「民主グループ」が、日本国内の政治情勢を見据えて主導した動きだった。この文章では池田を「殺人鬼」と呼んでおり、「吉村隊事件」とも呼称されたこの事件が、既に抑留引き揚げ者の間では有名だったことがうかがえる。

 御田重宝「シベリア抑留」には、ナホトカの民主グループの間で「吉村隊長」について「ウランバートルからすごいのが帰ってくる。生かしては帰さんと言う者がいるそうだ」といううわさがあったとの証言を記録している。

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 ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会・編集・発行「捕虜体験記1 歴史・総集篇」に付いている「シベリア歌曲選」には、ウランバートルのアムグロン収容所で真山基という人が1946年1月に作詞した「かちかち氷る蒙古の夜」という歌の歌詞が載っている。その4番はこうだ。吉村隊で厳しい処罰が行われたピークは1946年11月~1947年2月ごろとされるので、まだ「暁に祈る」という言葉はできていなかったが、現地の状況をほうふつとさせる。

 ノルマあがらず 戦友は

 酷寒零下 三十度

 裸で受けし 制裁を

 暁待ちて 死んで行った

 かちかち氷る 蒙古の夜

 そして実は、朝日が報道する直前、「週刊朝日」1949年3月13日号がこの事件を特集で取り上げていた。「吉村隊を裁け ソ連抑留記録から」と題して、シベリア抑留全体について論じる中で「暁に祈る」事件に焦点を当てた。「われらソ連に生きて」や、のちに胡桃沢耕史のペンネームで、抑留生活を描いた「黒パン俘虜記」で直木賞を受賞する清水正二郎「国境物語」など、事件を記した刊行物を紹介。「吉村」について「残念ながら、彼のフルネームはどの書にも記述されていない」とし、「引き揚げの途中、多数の元隊員によって復讐され、殺されたともなっており」などと、彼のその後については諸説あると書いた。

報道に火をつけた週刊朝日の特集記事

「シベリア抑留」の悲劇が背景に

 こうした事件の背景には戦後の膨大な海外からの引き揚げ者、とりわけ悲惨な「シベリア抑留」の問題があった。日本が戦争に敗れ、海外にいた兵士や一般人が日本に引き揚げてきた。「戦後史大事典」と橋本健二「はじまりの戦後日本」によれば、敗戦まで海外にいたのは軍人・軍属約350万人、一般邦人約320万人の計約670万人。1946年末までに500万人以上が引き揚げ、1948年には残っていた東南アジアからも引き揚げが行われた。

 しかし、ソ連参戦と中国の内戦の影響で引き揚げが困難を極めた人々もあった。満洲(現中国東北部)、南樺太(現サハリン)、千島で降伏した日本兵と一部民間人はシベリアへ送られて抑留され、大部分が長期にわたって強制労働をさせられた。