兵士のすみやかな帰還を約束したポツダム宣言に違背した行為だったが、その詳しいいきさつと正確な人数は諸説あってはっきりしない。
「捕虜体験記1 歴史・総集篇」によると、当時の厚生省援護局の推定ではソ連とその強い影響下にあったモンゴルを合わせた抑留者は約57万5000人、うち死亡者約5万5000人とされた。ソ連側の資料でも捕虜総数は約61万人、死者約6万2000人。「戦後史大事典」は「約86万人といわれる」としている。うち、モンゴルには厚生省援護局推計では「1万人以上」、ソ連側資料では約1万2000人とされるが、1万3000人とする説や2万6000人説もある。
「わが民族性と人道根本に触れる問題なのだ」
朝日は初報翌々日の3月17日付の1面コラム「天声人語」で取り上げた。「同胞に加えられたこのような人道の罪は、日本人の手によって徹底的に裁くべきである」と主張。「われわれの民族性の中にこういう血が宿命的に潜んでいるとは信じたくない。それは特殊の例外と思いたい。しかし実際には、外蒙、比島(フィリピン)その他、各地の収容所にも大小の吉村隊事件があったことを聞いている」とし「わが民族性と人道根本に触れる問題なのだ」と指摘した。
筆者は「天声人語」を17年間担当した有名なコラムニスト荒垣秀雄。彼は雑誌「人間」の同年6月号にも「“暁に祈る”と民族性」という、同趣旨の論文を載せている。当時はまだ外地からの引き揚げが続いており、朝日の記事の反響は大きく、一躍社会問題となった。
「リンチは曲解だ」「私に罪はないはずだ」
朝日は3月19日付で「吉村隊長は日本に居た 本社記者 五島列島で突き止む」の大見出しで2面のほぼ半分を使って報じた。元隊員らの話から吉村隊長が長崎・五島富江町の妻の実家にいることを突き止めて直撃取材。吉村隊長は本名・池田重善(34)であることを明らかにした。「訪れた記者に対して池田は『私に罪はないはずだ。いずれ真相は明らかになろう』と強い態度で語っている」と記述。「“リンチは曲解だ” 精力的な顔、鋭い眼」が見出しの「会見記」を載せた。
池田はその中肉中背の姿―どことなく憲兵隊のにおいがついている―を現した。
浅黒い、精力的な容相、体も頑健そのものだ。折々ギョロッと目玉が光る。記者を待ち構えたかのように落ち着きはらっている。既に15日付の朝日新聞記事を読んでいたといい、「封建的な日本軍隊のどの部隊でも多かれ少なかれあったことなのだ。そうひどいものではない」と前置きしてよどみなく語るのだった。
以下、池田の説明が続く。
私は外蒙のウランバートルの西北郊外の北兵舎と呼ぶ羊毛工場に収容され、いつの間にか隊長に推された。隊員は約300名いたが、その後、南兵舎の長谷川隊が合流。隊員は700名に増えた。隊員の半分は満州国警察官や(居留)民団員(民間人)で、新京刑務所のヤクザも多数いて製材、木工、羊毛工場などの作業に従事していた。私は隊長として隊員に次のようなゲキを飛ばした。「私たちは敗戦によって剣を失ったが、残された玉と鏡を磨いて進まねばならぬ。そのためには、強制労働を完全に克服した者こそ難関再建の礎となって最後の勝利を得るのだ。私たちはただ漫然と労働するのではなく、技術を身につけることが抑留生活を意義あらしめるのだ。そして、この苦しみをむしろ感謝しよう」と。こうして全員ノルマ(労働基準量)を完遂するため頑張り通し、ほかの部隊に見られぬ高能率をあげたため、吉村隊は別名を白星隊(勝利の部隊の意味か)と称され、その技術の優秀を伝えられるほどになった。