朝4時から午前1時まで働かされた
朝午前4時にたたき起こされると、まず朝飯前に約2000メートルも離れた山から電信棒ほどの材木を2本ずつ運びださねば飯を食わせない。それで、すきっ腹にその重労働をやってのけ、やっと朝飯にありつくと、次には8時間のれんが焼き、羊毛紡ぎ、石切りが待っている。それを終えて帰ってくるのが午後4時。息つく間もなく、収容所のそばを流れる川に追い立てられ、いかだから材木を解かねばならない。それが終わると9時半すぎになる。そして、やり遂げた者だけが晩飯を食うことを許される。晩飯が終わると、羊毛紡ぎを夜業でやらせるのだから、労働から解放されて眠るのはいつも(午前)1時すぎ。4時に起きるから、正味3時間の睡眠しかとれない。
弱い者や基準量をやり遂げぬ者は、吉村の手下のゴロツキが回ってきて殴る蹴るの暴行を加える。そのため作業ははかどるが、収容所内は悲鳴が絶え間なく聞こえるようになった。円匙(えんび=シャベル)で殴られてザクロのように頭がパックリと割れて死ぬ者も出た。私も睡魔と闘いながら作業しているうち、機械に巻き込まれて、ついに左腕を失った。はじめ、共同して吉村に当たろうという計画が出たが、いち早くそれに感づいた彼は巧妙なスパイ制度をとった。密告した者には多く飯を食わせ、仕事の量を減らせる。この巧みな手段に脆くも結束は崩された。吉村の目には、捕虜の動静は針一つ落ちたのでも伝わる。私たちは誰もが信用できなくなった。吉村はそれを見てニタニタ笑いながら、ゴロツキどもと毎日酒を飲んでいるのだった。
ウランバートルは世界で最も寒い首都で、冬の最低気温は零下40度より下がるとされた。当時は首都機能の整備を急ピッチで進めており、国立劇場や国立大学など、いまも残る公共施設が日本人捕虜の手によって造られた。
それにしても、その日の労働のノルマが果たせなければ私刑を加えるという、信じられない状況だが、証言によれば、恐るべき実態はさらにあった。話は核心に近づいていく。
糸のような最後の悲鳴
ウランバートルの郊外の山のふもとに死亡者の墓地がある。他の収容所の病死者もここに葬られるのだが、その大部分は吉村隊の私刑者の墓だった。春、捕虜たちは深く長い穴を掘らされる。死んだ男たちはその中に放り込まれ、1本のシラカバが無造作に立てられる。そのシラカバは2000本にも達し、不気味な林となった。そして収容所内では、吉村の命令通り働けないため絶食の処罰を受け、骨と皮にやせこけた男が病んだ家畜のように白い目をむいて縛られているようになった。捕虜中の一般地方民や体の弱い補充兵が多く彼のリンチの対象だった。
そのうちに吉村はさらに残虐な私刑を考えだした。“暁に祈る”という儀式である。基準量に達せず、絶食のリンチで労働力をなくした男が吉村の部屋の前に呼び出される。裸にされ縄で縛られ木に括りつけられる。外蒙の冬の寒気が翌日までには完全に真っ白い冷凍人間をつくり上げる。明け方、力尽きて、糸のような細い最後の悲鳴をあげる。それが“暁に祈る”だ。この方法で殺された男だけでも30人はいたと思う。
これが事実なら、たとえ捕虜収容所内の出来事といっても、明らかな非人道的な犯罪行為だ。記事は朝日の特ダネの形だったが、記事にもあるように、事件は一部の刊行物によって一般にも知られ始め、その中では「吉村隊長」を「ウランバートルの鬼」と表現したものもあった。