「全てが命令だった」
しかし、給料の分配問題から隊内にごたごたが起こり、賭博が流行して金に困った揚げ句、盗みが多くなり、ついに40余名が窃盗罪で当局の処罰を受けることになった。かくて窃盗、逃亡の罪を犯した14名の人が手首に縄をかけられたまま、零下20度くらいの寒中にさらされていた。監視付きではあったが、防寒具は身に着けていた。激しい苦しみに耐えようと、努力を続けていた人たちは、ようやく東が白むのを見て、心の緩みから猛烈な睡魔に襲われ、自然に頭を下げる。これが“暁に祈る”というふうにいつの間にか伝わった。私が直接私刑をやったのではなく、全てが命令であったのだ。
記事で池田はこう弁明。周りに用心棒としてゴロツキを置いたことも、隊員の賃金を着服したことも曲解だと主張し、こう付け加えた。「吉村と偽名したのは特務機関長の指示で、抑留されたとき、歩兵伍長として妻の姓を名乗ったもので、このことは抑留後すぐ発覚して、1週間ほど刑務所に引っ張られ、厳重な取り調べを受けた。隊員の死亡者は30人ぐらいで、肺結核がほとんど大部分。その他がけ崩れで5名ほど死亡した」。
これに対し、元隊員が傷害致死などで池田を近く東京地検に告発することが同じ紙面で記事になっている。元隊員らの「暁に祈る」目撃証言も載っているが、併用写真の説明は「(朝日)本社に集まった吉村隊関係者」になっており、朝日の“仕掛け”であることが分かる。
「これまでの暴虐を同胞の生身に加えたというのは、何と言ったって許されるべきことではない」
次いで3月20日付朝日は、またも2面トップで「これが吉村隊長」の見出しで池田の写真を初めて載せた。ただし、写真は「昭和17、8(1942~43)年ごろの池田」。その後「トレードマーク」となるロイド眼鏡も掛けていない。
記事によると、長崎県・五島では報道で知った島民がバスで富江町の池田の居場所に殺到する騒ぎに。本人は「生まれて間もない一粒種の赤ん坊をひざに乗せて長火鉢の前にゆったりと座り」、妻もそばにいた。「最初の新聞記事に出た吉川君の話に『虐殺された兵隊の白い墓標が2000も林立していた』とあったが、吉村隊全員が700名なのだ。誤りは自ら明らかではないか」などと責任を否定した。
同じ紙面では、告発を想定して「法律はどう裁くか 前例ない事件」の見出しで、当時占領下で外交関係が復活していなかった日本で、外国での犯罪を裁くことの問題点などを論じている。
3月24日付朝日2面はトップで「吉村隊長を告発 元隊員が東京地検へ」の見出し。初報に登場した吉川慶作・元吉村隊員ら2人が23日午後、東京地検を訪れ、検事正に「吉村隊長こと池田重善のウランバートル収容所における残虐行為」について正式に告発。受理され、東京地検は特捜部に基礎調査を命じたことを報じた。
別項の「私はこう思う」では作家・大佛次郎が「これまでの暴虐を同胞の生身に加えたというのは、何と言ったって許されるべきことではない」として「告発は当然」とコメント。田中耕太郎・参院議員(のち最高裁長官、文化勲章受章者)は「吉村隊事件は国際法の問題ではなく、私法上また刑法上、人類一般の普遍的原理に基づき正義の実現のために行う裁判だから主権の問題にかかわらずやれることだと思う」との見解を述べた。
この告発の段階で毎日も「外蒙で同胞を虐待」の見出しで初めて報道した。五島を訪れた毎日の記者に、池田は「デマの出た原因は、私が将校でないのに隊長に選ばれたことからのねたみがあると思う」と語っている。朝日の報道の反響は既に広がっており、同日付朝日の「声」欄には、報道と同様の事実を元吉村隊員の兄から聞いたという人と、「国民の手で裁け」と求める「反戦主義者で長期間拘留された官吏」の投書が載っている。
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