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連載大正事件史

2022/02/27

「お尋ねの事件に関しては、一切お話しすることができません」

 萬(万)事岡氏から

 記者は今暁(3月8日午前)2時、同(芳川)邸を訪れたが、伯爵は既に洋館の2階で寝ており、階下の玄関には、深更にもかかわらず1人の書生が徹夜の模様だった。邸内の四辺は闃(げき=ひっそり)として声なく、強いて伯爵に面会を求めた結果、書生を介して次のように語られた。「お尋ねの事件に関しては、一切お話しすることができません。当事件の全部は元の(内務省)警保局長・岡喜七郎氏に一任してあるので、同氏から聞いてくれ」……。従って、事件の内容並びにそのてんまつをつまびらかにすることができない。

 芳川伯爵は、メディア対応も含めた事件に関する一切の折衝を岡・元警保局長に任せたということ。岡は岡山県出身の内務官僚で秋田県知事や、のちに警視総監などを歴任。1913~1914年に警保局長を務め、事件当時は貴族院勅選議員だった。芳川顕正は2度にわたって内務大臣をしており、その際に親交があったのか。「親類」と書いている新聞も。

元内務官僚が登場して事件報道をリードした(東京日日).JPG

 驚くのは、午前2時につかんだネタを朝刊に突っ込んでいること。当時は締め切り時間はあってないようなものだったのだろう。実際に岡はすぐ動いていた。「保安課長言明」の中見出しを挟んで東朝の記事は続いている。

 一方、千葉県立病院に収容中の鎌子夫人の元へは、今暁2時に至って芳川邸の自動車672号に岡喜七郎氏ほか3名同乗して同院に駆け付けた。これより先、千葉警察署の鳥海警視は、目下病中の石黒保安課長と共に(同病院に)出張し、別室で秘密に内協議をこらし、今暁に至っても退出していない。一人の警部は記者に対し、情死婦人は東京・神田の某金貸しの娘なりなどとあざむいたが、石黒保安課長は「婦人は芳川伯爵家の令嬢鎌子だが、その他については一切語ることはできない。明朝、岡喜七郎氏から説明があるはずだ」と語った。

 重大事態発生に当時の千葉県警察部の幹部が駆け付けて対応を協議したということだ。しかし、岡の“出陣”によって、事態は警察の手が及ばない華族世界の内輪のスキャンダルとなった。こうした芳川家の姿勢がメディアを刺激して反発を招き、報道をスキャンダラスにエスカレートさせたことは間違いない。

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